File4:男子学生連続失踪事件(Finale) 202X年7月19日
──Side 富ノ森調査事務所 アルバイト 相川 桜──
202X年7月19日午後2時39分
富ノ森調査事務所
富ノ森調査事務所の中は、真夏の熱気で膨れ上がっていた。換気扇は空回りし、古い蛍光灯の下で空気は淀んでいる。窓から射す日差しは刃のように皮膚にまとわりついた。
廃映画館が崩れ落ちたのが昨夜。風吹に引きずられて脱出直後には俊兄と合流。風吹は「あとよろしく」と夜風に消えた。
そのまま俊兄と二人警察署へ直行。半日近く、何度も同じことを吐き出さされ、解放されたのは昼過ぎだった。
帰ってきた今も、頭は疲労の靄の中に沈んだまま。
胃はからっぽで、空腹感すらとっくに擦り切れていた。代わりに、ぬるくなったアイスコーヒーが胃の底を無理やり叩く。冷たさも苦みも消え、酸っぱさだけが臓腑をかき回す。
「……地獄だったな」
グラスを机に置きながら、独り言みたいに漏らした。
向かいの俊兄は、同じく徹夜明けだというのに、いつもの背筋を崩さない。書類仕事の際にかける眼鏡の奥の瞳は冷えて、机の上の書類の影を映していた。正義感は強いが、無駄な言い訳も、慰めも口にしない。そういう男だ。
で、ソファには風吹が寝そべっている。タンクトップにキュロット、汗で肌が光って、布の隙間から太ももがむき出しだ。……ほぼ下着じゃねーか。
視線を逸らすのに必死で、逆に余計に気になってしまう。
「出頭にも付き合わなかったくせに、いいご身分だな」
思わず吐き捨てるように言うと、風吹はだるそうに片腕を頭の下に敷いたまま、半目でこちらを見た。
「こんな蒸し風呂みたいな事務所に一晩いたから、あたしのほうが倒れてるって話だよ。瀬川、冷房、買えよ」
「そんな金はない」
風吹と俊兄の軽口。喉に残ったコーヒーの酸味が胸を灼いた。
「そういや──」
言いかけて、喉の奥で酸味が逆流した。すきっ腹にコーヒーで胃が怒っている。
「俊兄、昨日、突入する直前に電話しましたよね。出なかったくせに、最悪のタイミングに折り返してきて」
俊兄は眉ひとつ動かさず、カップを唇に運んだ。ぬるい液体を啜る音が響く。
「結果としてお前らが生きてここにいる。それで十分だろう」
「十分……ね」
頭の靄は消えない。あの瞬間の手応えのなさ──、崩れる天井、白石の泣き声、呻く鉄骨の音。それらがまだ耳の奥で軋んでいる。
「俺が騒ぎになる前に警察に一緒に出頭して説明してなきゃ、お前は拘留されてたぞ」
俊兄は淡々と続ける。
「依頼を受けての捜索、白石を脅す動画、加藤たちの素行。監禁の可能性を踏まえて突入し、説明不能な倒壊に巻き込まれて命からがら脱出。俺がすぐ消防警察に通報して出頭。説明。全部俺が筋道だててなきゃ、今頃お前は留置所だ」
その言葉を聞きながら、机の上の汗染みを爪でなぞった。
『監禁の可能性が出た時点で通報しろ』『素人判断で突入など論外だ』『桜くん、日本の法律では人の所有する建物に勝手に入っちゃいけないの知ってる?』──取り調べの担当だった森崎刑事の低い声がまだ耳に残っている。
正論だ。まっとうすぎて、反論する気力も湧かなかった。
「……助かったよ」
吐き捨てるように言った。言葉にすればするほど、胃が荒れる感覚。
そう、俺は、助かった。
彼女は──助からなかった。
取り調べの中で、瓦礫から彼女の遺体が発見されたことが告げられた。
「俊兄は、白石の件、どこまで?」
「取り調べの担当刑事含め、何人かの刑事、警官たちの記憶を読んだが、間違いなく死亡が確認された。崩落した映画館のがれきに押しつぶされていた」
喉の奥に何か硬いものが詰まったみたいに、言葉が出てこなかった。
思い浮かぶのは、あの狭い暗闇で、必死に声を絞り出していた白石の顔。震える指先。
──助けられなかった。
「……目の損傷は、見られずに済んだ」
俊兄が続ける。淡々と、まるで裁判記録でも読み上げるように。
「不幸中の幸いだろうな」
不幸中の幸い──その言葉に、眩暈を憶える。
思い出すのもつらい。風吹が振るった暴力の一撃。あの衝動的な一撃が、彼女の眼を裂いていた。
それを、がれきが覆い隠したから“幸い”だと?
俺は思わず俯いて息を吐く。ひどく乾いた、ひび割れた息。
「これで……よかったのかな」
声は勝手に口をついていた。
「助けられなかった。あんなひどい目に遭わされて……最後まで、救えなかった」
拳を握った。骨の軋む音が耳の奥で鳴った。
滝口のことも脳裏をよぎった。あいつは生きて裁きを受けるべきだった。死んで楽になるなんて、許されちゃいけなかった。
そんな俺に、ソファから、だるそうな声が飛ぶ。
「桜」
風吹が、汗で張りついたタンクトップを指で引っ張りながら、半目で俺を見た。
「桜が自分を責めるのは違うとおもうな」
ソファから投げられたその声は、冷房のない空気よりも乾いていた。
「自分の行いで世界が全部変えられると思ってる?」
タンクトップの胸元をぱたぱた仰ぎながら、風吹は続ける。
指ぬき手袋の桜色が揺れ、汗を吸った布地がちらりと光った。
「地球の裏側の戦争を止められる? 飢えて死んでる子どもを救える? ……無理じゃん」
言葉は棘だらけだった。けれど、その奥に熱は感じられない。ただ、事実だけを投げつけてくるような調子。
「……俺は、そんな大それたことを言ってるんじゃない」
喉の奥から掠れ声が出た。
「でも、手の届く範囲くらいは……今回の件は、俺に届いたかもしれないんだ。届いたはずなんだ」
呻くように絞り出すと、風吹は片眉を上げた。
「なら桜は傲慢だよ」
短く切り捨てる。
「届かなかったから、いまこの結果がある。つまり最初から、この結果を変えることは桜の手の届く範囲じゃなかった。それだけの話」
喉に熱いものがせり上がる。反論したいのに、言葉が出てこない。
呻き声みたいな息が、苦く焦げた空気になって吐き出された。
風吹はだるそうに転がり直し、ソファの背に腕を投げ出した。
「桜が背負えるもんは桜の分だけ。全部背負うとか、そんなの無理。桜が潰れるだけだ」
その口調は突き放すようでいて、どこか柔らかい。
拳を膝に押しつけたまま、俺は唇を噛んだ。
胸の奥が焼けるみたいに熱くて、視界がじわりと滲んだ。
「……ちくしょう……」
声が震えた。吐き捨てたつもりだったのに、情けなく掠れていた。
理屈はそうでも、そんな簡単に、割り切れるものではない。
言葉は止まらなかった。
「それでも……もう後悔はしたくない。助けたいと思ったら、俺は飛び込む。何度でもだ」
呻きながら吐き出した決意は、自分に言い聞かせるようでもあり、誰かに縋るようでもあった。
「そのケツは自分で拭けよ、バカヤロー」
風吹が片腕を額に乗せたまま、呆れ顔で吐き捨てる。
口調の奥には、かすかな笑みが混じっていた。
そのやりとりを横で聞いていた俊兄が、外した眼鏡をクロスで拭いた。
肩口から黒い靄が薄く滲む。
「……桜。気持ちはわかる。だが一つ覚えておけ」
声は淡々としていたが、どこか労わるような響きがあった。
「俺たち呪われし者は、放っておいても狙われる存在だ。遅かれ早かれ、誰かとぶつかる。それは避けられない。お前と風吹と彼女がぶつからずとも、いずれ他の誰かと彼女がぶつかっていた」
氷を落とされたみたいに胸が冷える。
それでも言葉は続いた。
「いずれにせよ、残りは──六人だ」
「……六人?」
思わず聞き返す。頭の中で数を並べても、合わない。ハコに選ばれた祈る者は全部で八人のはず。
「例の、カフェの店内で、店に接触もしていないトラックに轢かれたように男が死んでいた事件が報道されていただろう。被害者は佐伯充という元自営業者だ。事業に失敗して借金があったらしいな」
俊兄は視線を机に落とし、低く続けた。
「捜査資料を見た刑事の記憶によると──佐伯の死の、二日前だ。あいつが借金していた隣県の消費者金融オフィスで、屈強な六人の社員が九センチ角のサイコロにされて発見された」
胃の奥がきしむ。
「凶器は見つかっていない。不可解なのが、全員がそのオフィスの中で加工されていたこと。血の渇き具合や腐敗のすすみなどから推定して、六人全員が同じ死亡推定時刻かつ同じ加工時刻に処理されたと考えられること」
想像して酸味が喉まで来る。
「人間には不可能だ。死亡した場所とサイコロが積まれた場所が一致しているから、機械を持ち込んでどうこうということもできない。さらに警察の調査で、死亡推定時刻の前後に現場ビルの監視カメラ映像に写っていた男のひとりが佐伯だと確認されていた」
「……つまり佐伯が?」
俊兄は短く頷いた。
「昨日、現場のオフィスへ行った。もちろん事件からもう2か月──特殊清掃が入ったあとだったが、部屋の記憶を見てきたよ。死んだ佐伯は、祈る者だった。俺たちは常にそういう環境にいるんだ」
俊兄の言葉は、重い。二度も事件に巻き込まれてなお、非日常すぎて忘れそうになる。
今こうしている間にも、俺たちと同じ呪われし者が、俺たちの喉元にナイフを突き立てようとしていることだって、常に想定しなければいけないことを。
しばしの沈黙。
扇風機しか回らない事務所に、外から蝉の声が張りつく。
「しかし問題は──」
冷えた声が、沈黙を切り裂いた。
俊兄が眼鏡を机に置き、深く息をついた。
「依頼人への報告をどうするかだな。加藤はもう穴の中で、見つけようがない」
「──前金返すか、ドラム缶か……好きな方選びなよ」
風吹がソファの上で笑いながら投げた軽口に、俊兄は苦笑で応じた。
俺はぐったり椅子に沈みながら思う。
──しばらく、カップ麺とモヤシ炒めが食卓に並ぶ日々になりそうだ。なんなら今週いっぱい肉は見たくない。
蝉の声が遠のいた。
扇風機の風が、机の上のファイルをめくりあげる。
開かれたページの見出しに、黒いインクが滲んでいた。
──月曜日の通り魔事件。
六月。
約ひと月前の出来事だった。
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