9:「23:30」☆
教室につばきたち三人を残し、ゼン、サク、すずは図書室へと向かった。
先頭を行くゼンはどこか不機嫌そうで、声が掛けづらい。できるだけ音を立てないようにしながら、薄暗い廊下を静かに進む。
運良く人影に見つかることなく、図書室まで辿り着いた。扉を開けると、ずらりと並んだ本棚が目に入る。ゼンは部屋の奥に設置されているパソコンの方へと、足早に歩いていった。
「……駄目か」
パソコンの電源を何回か押した後、ゼンが呟いた。まあ、部屋の電気もつかないことを考えれば、これも当然なのかもしれない。
それでも諦めずコンセントを調べたり、キーボードを叩いたり、パソコンの前でゼンは奮闘していた。
すずはゆっくりと図書室の中を見回してみる。
総記、哲学、歴史、社会科学、自然科学、技術・工学、産業、芸術・美術、言語、文学。図書分類記号の順に、綺麗に本が並んでいる。
ふと、ここで小さな違和感を覚えた。けれど、それが何なのかは分からない。
本来あるべき何かが、足りない――そんな気がした。
まあ考えても分かりそうにないので、違和感はひとまず置いておくことにする。
気を取り直して、哲学のところにある心理学の本を何冊か手に取ってみた。それから、社会科学のところに行き、風俗習慣・民俗学・民族学の本を探す。伝説とか民話あたりに、何か参考になりそうなものはないだろうか。
月明かりだけを頼りに探しているので、じっと目を凝らして集中しないといけない。一冊一冊、題名を目で追う。
――その時。
「危ない!」
急にぐいっと横に引っ張られて、手に持っていた本が床に散らばった。驚いて見上げると、サクの顔が間近に見える。
「え? サク先輩?」
「こっち、早く!」
「あ、本が……」
「それは後で良いから!」
サクがすずの手を強く引き、本棚から離れた。すずは目を白黒させながら、さっきまで自分が立っていた場所を確認する。
そして、ひゅっと息を呑んだ。
ゆらり、ゆらりと揺らめく、透明な人影がそこにいた。人影は、すずの落とした本の上に乗るようにして静かに佇んでいる。すずたちには気付いていないようで、ぼんやりとしているように見えた。
「え……いつの間に」
全く気配を感じなかった。こんなに近くにいたのに。
もしかして、ずっとすずの後ろにいた?
ぞっと寒気を感じ、鳥肌が立った。
「あんまりここに長居しない方が良いみたいだ。本を拾ったら、すぐに教室へ戻ろう。――つばきたちが心配だ」
すずがこくりと頷いたのを見て、サクは慎重に動き出した。すずの手を握ったまま、ゼンのところへ急ぐ。
けれども。
パソコンの傍で配線を確かめているゼンのすぐ横に、透明な人影が立っていた。サクとすずは、一瞬躊躇して立ち止まってしまう。
「……すずちゃんは、ここにいて」
青ざめた顔のサクが、すずの耳元で囁いた。すずは口を押さえ、ガタガタ震えながら何度も頷いてみせる。
透明な人影はこちらには気付いていないようで、ゼンの方ばかり見ていた。その透明な手がゆっくりと伸ばされ、ゼンの肩に触れそうになる。
「ゼン!」
サクがゼンの名を呼び、その体を引っ張った。透明な手はゼンを逃し、ふらふらと彷徨いはじめる。
ゼンは急に引っ張られたせいで唖然とした表情をしていたけれど、目の前に透明な人影がいることに気付くと、腰を抜かした。
「な、なんでこんな近くに、こいつが」
「ゼン、立て。逃げよう」
サクがゼンの体を支え、立ち上がろうとした。
すると、透明な人影が逃げようとするふたりの方に、のっぺらぼうの顔をぐりんと向けた。
――み つ け た。
そんな感じの動きだった。それと同時に、サクとゼンの周りにもうひとつ、人影が湧いて出てくる。
すずは目を見開き、その場にぺたりと座り込んだ。
薄暗い図書室。月の光が微かに落ちる窓際。
透明な人影がふたつ、ゆらゆらと揺れながら手を伸ばす。
ゼンの腕と、足が捕まった。
「――くそっ」
ゼンは顔を歪め、自分を支えているサクを突き飛ばした。それから、サクの方に伸ばされている透明な手を自ら掴みに行く。
「サク先輩、すずを連れて、逃げてください」
まっすぐな目で、ゼンはサクとすずを見つめた。そのすぐ後、ゼンの体から力が抜けていく。
ぐったりと床に倒れ込み、顔を歪めるゼン。
嘘だ。こんなこと、ありえない。
だって、すずはゼンのことが嫌いなわけじゃない。消えてほしいなんて思ったことがないのに。
ああ、でも。
初対面の時、ゼンには冷たい反応をされた。それが、少しショックだった。
――まさか、それだけで消えてしまうの?
「い、嫌……! ゼン先輩!」
すずは無我夢中でゼンに駆け寄った。
これ以上すずのせいで誰かが消えてしまうなんて耐えられない。泣きそうになりながらも、透明な手をゼンから引き剥がそうと試みる。
「ど、どうして……?」
すずには、透明な手を掴むことができなかった。するりと擦り抜けて、何の感触も感じられない。
ゼンの手は透明な人影を掴むことができたというのに、なぜ?
ゼンの瞳がふっと虚ろになり、灰色に染まっていく。
「ここは、どこなんだ……? ああ、そうか。そういう、ことか」
「ゼン先輩? ここは図書室だよ、しっかりして!」
「助かった。……痛い。……痛い、痛い!」
ゼンが急に苦しみだした。ゼンの体を急いで確認すると、右肩と右足にじわじわと赤い染みが滲んできている。
足掻くゼンの顔から眼鏡が外れ、からんと空虚な音を立てて床に転がった。
こんなの、こんなの、駄目!
すずが赤い染みに手を当てた、その時。
ふわり、とすずの手のひらから黄色い光が湧いてきた。
その光はゼンの右肩と右足を優しく包み込んでいく。そして、赤い染みが薄まると同時に痛みが和らいだのか、ゼンの表情が穏やかになっていった。
ゼンの灰色の瞳が、すずの方を向く。
「――すず? つばき、は」
言葉の途中で、ゼンの体がさらさらと消えていく。
すずは呆然として、その様子を見ていることしかできなかった。
ななみの時と同じ。ゼンが消えたら、透明な人影も一緒に消えた。
図書室に残されたのは、サクとすずのふたりだけ。
痛いほどの静寂が、月明かりの静かな図書室を満たす。
「すずちゃん。とにかく、教室に戻ろうか。……行くよ」
サクはすずの落とした本を手早く拾うと、すずの手を掴む。
すずは黙ってゼンが落とした眼鏡を拾い上げ、サクに導かれるまま立ち上がった。
ゼン先輩がログアウトしました。




