6:「22:00」
「すずちゃん、ほら、手」
サクがすずに手を差し伸べてくる。その手に支えてもらいながら、すずはガラスの破片をまたいだ。
足が土を踏みしめて、じゃり、と音が鳴る。
校舎の外に出ても、自分たち以外の人の気配はなかった。静かな夜の空気が辺りを包んでいる。星がちかちかと瞬き、空だけはやたら綺麗だった。丸い月が涼やかな光を落とし、校庭をひんやりと照らす。
整えられた植込みの傍を抜け、校門の前に辿り着く。けれど、みんなはそこで立ち止まるしかなかった。
「嘘、でしょ……」
つばきがポニーテールを揺らし、呆然と呟いた。つばきの隣に立っていたゼンも、眼鏡の位置を直しながら校門の外を凝視している。
校門の外は真っ暗な闇に覆われていた。不気味な黒い空間だけが、そこにある。
「どうなってるのよ……」
つばきの呟きが空しく響く。すずは地面に落ちていた小石を拾って、校門の向こう側へ向かって投げてみた。
石は闇の壁に当たり、跳ね返る。そして、ころころとすずの足元へと転がってきた。
みんな、ごくりと喉を鳴らす。
――出られない。
すずの後ろにいたふわふわ髪のななみが、ぺたりと座り込む。釣られて、つばきもふらふらとよろめき、その場に膝をついた。
「他の出口がないか、探すわよ。こんなの、おかしいでしょ」
ショックを受けるふたりとは違い、みかは強気な声で言う。その提案に男子たちが頷き、それぞれ駆け出していった。
すずは突っ立ったまま、ついさっきまで自分たちがいた校舎を眺める。
月明かりに照らされた校舎は、冷たい闇の中で沈黙していた。
「――駄目だ、どこからも出られそうにない」
戻ってきたサクが息を弾ませ、首を振った。残りの男子たちも出られそうな場所を見つけられず、項垂れて戻ってくる。
呆然と立ちすくむ七人の傍を、生温い風が吹き抜けていった。じわり、と嫌な汗をかく。
「……ひっ」
ななみが小さく悲鳴をあげた。青ざめて唇を震わせる彼女のふわふわ髪を、風が揺らす。その髪の毛が月の光にきらめいて、場違いなほどの綺麗な光景を生み出していた。
涼やかな月に照らされたななみの指が、ゆっくりと校庭を指す。震える、その指先にあったのは――。
ゆらり、と不気味に揺れる人影。
いや、人影といっても、人間の形をした透明な何かだ。水かゼリーを固めて人の形にしたような、そんな感じの得体の知れない物体。
さっきまで校庭には何もなかったはずなのに。ひとり、またひとりと、透明な人影が増えていく。
「逃げるわよ」
みかが低く鋭い声で囁いた。ゼンがつばきの手を取って駆け出す。その後を追うように、コウがななみを抱え上げて走った。
すずはというと、ぼんやりと透明な人影を見つめていた。校庭には五人ほどの人影がゆらりゆらりと揺れている。こちらに気付いていないのか、その人影は揺れるだけで何かしてくる感じはしない。
不意に、綺麗だな、と思った。
どうしてそう思ったのかは分からない。
けれど、夜の校庭に突如現れた人影は、月のさらさらした光を受けて、きらめいているように見えた。
現実でこんなものを見たら、すずもみんなと同じような反応をしてしまったと思う。
ただ、すずは知っていた。
この世界は現実ではないことを。異世界なんだ、ということを。
透明な人影に誘われるように、すずは校庭に向かって一歩踏み出した。
「すずちゃん」
サクの声に、はっとして振り返る。サクは青ざめた顔で首を振っていた。いつの間にか手が繋がれていて、そのままサクに引っ張られる。
「気付かれないうちに、逃げるよ」
すずが答える前に、サクは走りだした。手を引かれながら、すずはサクと一緒に校舎の方へと戻る。
時々つまずきそうになったけれど、そのたびサクに支えてもらった。
校庭に佇んでいる人影が、また少し増える。月の光を浴びているはずの、その人影の足元には影がない。
実体のない幻なのだろうか。
「とりあえず、校舎の中に戻ろう。あの人影から、なんとか逃げないと」
サクがみんなに向かって小声で呼び掛けた。全員神妙に頷いて、壊した扉のところへと歩きだす。粉々になったガラスの破片を踏まないように、月明かりに目を凝らした。
ゼン、つばき、みか、コウ、という順番で次々に破片を飛び越えて、校舎内に戻っていく。
そして、すずの番が来た時。
突然、横から突き飛ばされた。予想もしていない急な衝撃に、すずは反応しきれずに転んでしまう。
「きゃあ!」
何が起こったのか、と顔を上げて確かめると――そこには冷たい目をしたななみが立っていた。ふわふわの髪が月の光を反射して、艶やかに光る。ななみは初対面の時の優しそうな感じを捨て去り、蔑むような目つきですずを見下ろした。
「やっぱり、あんたは怪しいよねー?」
こてりと首を傾げるななみ。
頬に人差し指を当て、くすりと笑う。
「私、怪しい人とは一緒にいたくないなー。あんた、さっき、あの怪しい人影に近寄ろうとしてたよねー? 気持ち悪ーい」
「ななみ、やめろ」
サクがななみを短く叱責した。それから、すずに駆け寄り、助け起こしてくれる。
その様子をななみは無表情で見ていた。
「ちょっと、ななみ? 何やってるの、早く入ってきなさいよ」
校舎の中から、みかが声を掛けてくる。その声にななみが歌うように答えた。
「みか先輩ー。この人、置いていきましょうよー。私、この人を校舎内に入れるの、嫌なのでー」
ななみの指先が、すずを指す。すずはびくりと体を震わせた。
まだこの世界に来て一時間くらいしか経っていないというのに、なぜこんな扱いを受けているのだろう。すずはななみに対して悪いことなんて何もしていないのに。
ああ、私もこの人が嫌いだ、とすずは思った。
臆病で小心者のすずはそんなこと口が裂けても言えないけれど。
私だって、こんな人と一緒になんていたくない、とそう思った。
目には目を、歯には歯を。敵意には敵意を、悪意には悪意を。
こんな人、消えてくれれば良いのに――そんな風に、考えてしまった。
だから、なのか。
ふっとななみの後ろに、透明な人影が現れた。ひとり――いや、ふたり。
ゆらめく透明な人影は、ななみの肩にゆっくりと手をかける。
「……ひっ」
ななみの小さな悲鳴。透明な人影は、真っ青になったななみの腕を、足を、腰を、掴んでいく。
声なき叫びが、聞こえた気がした。




