19:「4:30」☆
透明な手が、床に座り込んだままのみかの体を捕らえた。
みかが逃げようと手足を暴れさせる。けれど、その手足さえもからめとられて、徐々に自由を奪われていった。
「みか先輩!」
消させない。消させてたまるもんか。
すずは震えながらも、みかの傍へ行こうと一歩踏み出す。
でも、そんなすずをサクが引き止め、ふるふると首を振った。
「すずちゃんは、ここにいて。俺が行く」
サクは今までずっと握っていたすずの手を離し、みかの傍に寄る。そして、サクはみかを捕らえている透明な手に、震える手を伸ばした。
すずとは違い、サクは透明な手にきちんと触れられるみたいだ。しっかりと透明な手を掴み、ゆっくりと引き剥がしていく。
「サク……」
みかの細い声が、サクの名を呼ぶ。サクは小さく頷くと、またひとつ、透明な手を引き剥がした。
「みか、諦めるなよ。絶対、消えたりするな」
「うん……」
すずは祈るようにそれを見守る。
透明な手に捕まっているみかも、その手を引き剥がすサクも、どちらも恐怖の頂点にいるだろう。ふたりとも取り乱さないのが不思議なくらいだ。
みかの傍にまたひとり、透明な人影が増えた。
サクが唇を噛み、汗を拭う仕草をする。みかはただ静かに遠くを見つめていた。
そのみかの瞳がだんだん虚ろになっていき、灰色に染まっていく。
――駄目! このままじゃ、みか先輩も消えちゃう!
すずはたまらず、みかとサクに駆け寄った。
「みか先輩! お願い、負けないで!」
みかの手を握ると、微かに握り返してくれた。すずは、少しだけほっとする。
そして、サクがまたひとつ透明な手を払うと、みかの瞳の色がすっと戻った。
「サク、すずちゃん」
みかがはっきりとした口調でそう言い、サクとすずをしっかりと見つめてきた。
「私、思い出した。放課後、旧校舎で、私たちは――」
小さくみかの体が震えたかと思うと、その左胸のあたりが赤く染まり始める。
すずは反射的に手をかざし、「ギフト」を発動させた。黄色の光がたちまち生まれ、みかの体を包んでいく。そして、その傷をあっという間に癒していった。
みかは苦しそうな表情を徐々に和らげていき、絞り出すようにしながら言葉を続ける。
「地震に、遭った」
言い終わった途端、みかの瞳がまた虚ろになり、灰色に染まる。
すずは必死になってみかの手を握ったけれど、今度は握り返してもらえなかった。
みかの手はどんどんカサカサになっていき、力なく落ちる。
「……揺れる、崩れる」
みかはぽつりと呟くようにそう言い残すと、完全に体から力を抜いた。と同時に、その体がさらさらと消え始める。
すずはそれを食い止めようと手を伸ばしたけれど、どうしようもない。
すずの手から、みかの体が零れ落ちていく。
その手が空っぽになった時、透明な人影もゆらりと揺らめいて、消えた。
また、同じパターンだ。
何度も繰り返す、悪夢。
「――みか先輩」
空っぽの手のひらを見つめて、すずは涙声になる。
もう少し早く何もかもを打ち明けていたら、何か変わったかもしれないのに。
なんてすずは、愚図でのろまなんだろう。
自分のことが心底嫌になる。
サクは項垂れて床をじっと見つめている。
みかが先程までいた床を睨みつけるようにして、そこから目を離そうとしない。
もう、そこには何も残ってなんかいないのに。
美術室に残されたサクとすず。他には誰もいない、ふたりきり。
「すずちゃん」
サクが床を睨みつけたまま、すずの名前を呼んだ。その声は少し固い。
「すずちゃんは、俺が守るから。だから、必ず、生きて」
「……サク先輩?」
「お願いだから」
ふっとサクが顔を上げ、すずをまっすぐに見つめてきた。その瞳には強い光が宿っている。
その時、すずは理解した。
サクは、たとえ自分が犠牲になったとしても、すずを生かそうとしているのだと。
この絶望的な状況下で、すずだけは生き残らせようとしているのだと。
「嫌、です」
「すずちゃん?」
「サク先輩も、一緒に生きてくれないと、嫌です」
じわりと急に目頭が熱くなって、涙が滲んだ。視界はどんどん歪んでいき、美術室の風景がぼやけていく。
絵の具のこびりついた机。
何かを引きずったような跡の残る床。
チョークの汚れが落ちきっていない黒板。
棚に立てかけてあるキャンバス。
全てが溶けて、零れ落ちていくみたいに。
月明かりに照らされた景色が、歪んで、滲む。
サクがおもむろに立ち上がり、すずの隣に来た。そして、ぐっと強くすずを抱き締めてくる。
一瞬、息が止まった。
「すずちゃん、聞いて」
耳元でサクが囁く。
「ななみは消えた。ゼンもつばきも消えた。コウも――そして、みかも。みかの言うことを信じるなら、放課後に旧校舎にいた生徒全員、消えることになるんだと思う。もちろん、俺も消えるんだろう」
「そ、んな」
「でも、すずちゃんは違う。すずちゃんは、旧校舎にはいなかった。――そうだよね?」
頬を涙が伝っていく。すずは静かに頷いた。
「俺たちと違って、すずちゃんは助かる可能性が高いと思ってる。だから、恐がらないで」
サクの声は明るかった。
でも、とすずは思う。
消えるのと、残されるのと、どちらが恐いだろうか、と。
今のすずにとっては、サクに置いていかれ、ひとり残される方が恐い。
サクが消えて、『生き残』って、元の世界に帰ることができたとしても。
胸の痛みは、きっと消えない。
任務である『生き残れ』というのは、本当にすずひとりだけが生き残れば良いのだろうか。
誰かとともに生き残るというのも、許されたって良いのではないだろうか。
すずはサクにしがみつく。
「サク先輩……」
「ああ、もちろん俺も消えたいわけじゃないよ。すずちゃんが言ってくれたように、俺もすずちゃんと一緒に生きたいと思ってる」
サクの手が、すずの頭を優しく撫でた。
「でも、人が消えるのはいつも突然だから。言いたいことはすぐに言っておかないと、と思っただけなんだ。――すずちゃん、生きて。俺が言いたいのは、それだけだよ」
みか先輩がログアウトしました。




