14:「2:00」
「ああ、ごめん。すずちゃんを疑っているわけじゃないんだ」
サクが慌てたようにそう言って、すずの手を取ろうとしてくる。
でも、なんだか気まずくて、すずはそれを避けた。
そのまま、じりじりと後退し、サクと距離をとる。
サクが行き場を失った手をゆっくりと下ろし、困ったような顔をした。
「本当に、疑ってないよ。すずちゃんがそう言うのなら、そうだったんだと思う。信じるから、その、怒らないでほしいんだけど……」
すずはぎゅっと目を瞑り、ふるふると首を振った。
怒っているわけではない。ただ、急に恐くなってしまっただけ。
今頃になって、すずは思い出した。
この世界からすずが元の世界に戻るためにしなければならないこと。
任務――『生き残れ』。
急に理解してしまった。
たぶん、この先もどんどんあの人影に消されていく。
すずは、他の人を蹴落として、生き残らなければならない。
そうしなければ、すずは元の世界に戻れない。
みかやコウ、そしてサクが消えた時。
きっと元の世界への扉が開かれる。
だから、すずは特別。他の人とは違うものを持っている。
「ご、ごめんなさい、私……」
ここにいる三人とすずは、根本的に違う。でも、だからといって、この三人が目の前で消えていくのを見なければならないなんて、そんなの耐えられるはずがない。
自分だけが助かればそれで良いなんて、微塵も思えなかった。
この世界は、もしかしたらすずのせいでおかしくなったのかもしれない。
臆病で役立たずのすずが『生き残れ』という任務を達成できるように準備された、歪んだ世界……。
異世界というのは、あるひとりの人間だけに都合よく回る舞台だと言うの?
そんなの、絶対、おかしい!
みかを、コウを、サクを消したくない。ななみやゼン、つばきだって消えてほしくなかった。
この世界に生きていた人々が、余所者のすずひとりのせいで消えるなんておかしい。
どうしても消えなければならない人間がいるとすれば――それはきっと、すずだ。
中途半端な気持ちで異世界への扉を開けた、すずだけだ。
「すずちゃん、どこ行くの?」
驚いたようなサクの声。その声を無視して、すずは教室を出て走った。
明るいあの安全な教室に、これ以上異質な自分なんていてはいけないと思ったから。
だから、逃げた。
薄暗い廊下を闇雲に走る。息が上がり、喉の奥がつかえたようになり、心臓のあたりが気持ち悪くなった。吐き気がして、視界が滲む。
ここがどこかなんて、もう分からなかった。
近くの扉を開けてみると、そこは調理実習室だった。棚の中にお皿が何枚も積み重なっている。調理道具もきちんと整頓されて並んでいた。
すずは壁に背をつけて、ずるずると座り込む。ひんやりとした床が気持ち良い。
そこに、ゆらりと透明な人影が現れた。ぼんやりと揺れるその人影は、ゆっくりとすずに近付いてくる。
「……私が消えれば、この世界はまともに戻る?」
すずは透明な人影に尋ねた。人影は揺れるばかりで何も答えない。
ななみでもない、ゼンでもない、つばきでもない。誰だか分からない人影が、ひとり、ふたりと増えていく。
すずの手を掴もうと、透明な手が伸ばされる。すずは抵抗せず、じっとしてその時を待った。
ここで消えるなら、それも良いかと思った。
けれど。
透明な手はすずを擦り抜けていく。まるで、すずなんか存在していないかのように。
「やっぱり、私だけ異質なんだね……」
ぽろりと目から雫が落ち、頬を伝った。透明な人影が揺らめいて、何事もなかったかのように去っていく。ひとり、またひとりと、すずを残して消えていってしまう。
頭が重い。もう何も考えたくなかった。
目を閉じて、身を縮こまらせて、顔を伏せる。
異世界になんて、来なければ良かった。
しんとした調理実習室にいると、キーンという耳鳴りがする。身動ぎをして、その耳鳴りから逃れようとしてみたけれど、あまり意味はなかった。
静かなのにうるさい気がして、すずは思わず耳を塞ごうとしてしまう。
とその時、遠くの方からぱたぱたと誰かが走ってくる音がした。
足音はだんだん近付いてくる。複数の足音だ。声も聞こえてくる。
「すずちゃん、どこ? 返事をしてくれ!」
サクの声だった。
こんな異質でおかしな存在のすずを、必死に探してくれている声。
本当に、サクはどこまで優しい人なんだろう。
「サク、先輩」
すずは小さく、その名前を呼んだ。聞こえるわけがないだろうというくらい、微かな声で。
その瞬間、扉が開いて、サクの顔が見えた。すずの小さな囁きが聞こえたのかと勘違いするくらいの絶妙なタイミングだった。
「すずちゃん! 良かった、ここにいた……」
すずはサクに抱き締められた。すずの目から、また雫が零れ落ちる。
サクは嗚咽するすずを労わるように、背中を撫でてくれた。
「恐かったね、もう大丈夫。大丈夫だよ」
サクの後ろから、みかとコウも現れる。ほっとした表情を浮かべ、ふたりともこっちを見ていた。
「すずちゃん、歩ける? この辺り、人影が多いんだ。危ないから、人影の少ないところへ移動しようね」
サクは焦った声でそう言うと、すずの体を支えて立とうとする。みかやコウも手を貸そうと駆け寄って来てくれた。
「あ……」
みかとコウのすぐ後ろに、突然透明な人影が湧いてきた。数人の人影がみかを捕らえようと、次々に手を伸ばす。
「駄目!」
すずの叫びに、全員が透明な人影に気付いた。コウがみかを庇うように前に立ち、人影と対峙する。
透明な手がみかからコウへと標的を変えた。コウの腕に、次々と透明な手が絡みついていく。
「コウ!」
みかとサクの声が重なる。
またか。このままでは、コウも消えてしまう。
頭の中が真っ白になった、その時。
ぐらり、と視界がぶれた。続いて、低く唸るような鈍い音。
棚から食器が放り出されて、派手な音を立てて割れる。
――地震だ。
体が揺さぶられる感覚。すずはサクに抱き込まれ、守られていた。ぐらぐらと揺れるその震動はしばらく続いたかと思うと、ぴたりと止まる。
「大丈夫だった? すずちゃん」
青ざめたサクが、すずを覗き込んでくる。すずはこくりと頷いた。
みかとコウも真っ青な顔をしていたけれど、なんとか怪我もなく無事なようだ。
コウを捕らえていたはずの透明な人影は、どこかに消えてしまっていた。
地震のおかげで、なんとか命拾いしたみたいだった。




