90 海辺の町 2
「厨房を貸して戴けませんか?」
宿を取り、ひと息入れた後、私は宿の主人にそう言って頼み込んだ。
そう、料理屋で刺身を作ってくれないのなら、自分で作れば良いのである。
刺身を作るのは、前世で慣れている。5人家族だと、刺身、つまり食べる状態に切ってあるやつではなく、柵を買った方がいいからね。
いや、柵の方が値段的にお得、とは限らないけれど、朝から切ってあるやつより、柵で買って食べる直前に切った方が美味しいから。刺身で売っているやつは、切断面が長時間空気に晒されているから、間違いなく味が落ちてる。それよりは、ちゃんと研いだ柳刃で、切断面の細胞を潰さないようにひと引きでスッと切り、鮫皮のわさびおろしで擦ったわさびをチョイと載せて、ううううう!
「ほぅ、どんな料理を作りたいんだ? 今は仕込みの時間で食事は出していないから、少し位なら使わせてやってもいいが、危ないことや調理器具を駄目にするようなことをしないよう、ちゃんと俺が見ているということが条件だ」
やった!
固いことを言われないように、いつもよりちょっとお安い、適当そうな宿にした甲斐があった。
「刺身、ええと、生の魚を薄く短冊状に切って、薬味と調味料をつけて食べるんです! 薬味と調味料は用意しているので、包丁とまな板だけ使わせて貰えれば……」
「駄目だ」
え?
さっき、いいって言ったじゃん!
私が反射的に睨み付けると、宿の主人は盛大に顔を引き攣らせて身を引いた。
「お、脅しても無駄だ! だ、駄目に決まってるだろうが!」
……別に脅してなんかいないし、どうしてそんなにビクついて……、いや、いい。分かってる。
「なぜですか!」
私の詰問に、主人は、今度は呆れたような顔で答えた。
「うちは宿屋兼食堂だぞ。うちの食堂で調理した料理を食べた客が、のたうち回って薬師のところに運ばれたなんて噂になった日にゃ、客が来なくなって潰れちまうだろうが!」
「あ……」
確かに、噂が広がる過程で、『客が、自分で調理した』という部分は真っ先に省略され、欠落するだろう。そしてあとは、関係のない尾ひれが付きまくって、面白おかしく、悪意に満ちた噂が広まるだろう。そう、地球のネット環境のように……。
「絶対大丈夫、ってお約束しても……」
「駄目だ。初対面の子供の言うことを信用して危険を冒すには、俺には失うわけにはいかないものが多過ぎる」
「ですよね~!」
当たり前だ。私でも、絶対に使わせない。
諦めて、部屋に戻った。
夕食は、宿を取る前につい入ってしまった店で焼き物と煮物の魚料理を食べた。刺身が食べられないなら、今日はもういいや……。
傷心の私は、レイエットちゃんと一緒に、さっさと寝るのであった。
そう、明朝に備えて。
* *
「散歩に出てきます」
レイエットちゃんを抱え……、って、重っ!
翌朝早く、レイエットちゃんの手を引いて、傷心の散歩に出る私。
失意の私を気遣ってか、誰も私に話し掛けようとはしなかった。そして誰も私についてこなかったが、どうせこっそりと隠れて護衛についてくるに決まってる。
そして悲しみに包まれた私の行き先は、決まっている。
そう、市場だ。魚市場!
調理場を貸してくれないなら、自分で全て用意すればいいだけのことだ。食材も、そして調理場も!
そして、やってきました、魚市場!
もちろん、近郊の町や村からの買い出しの商人だけでなく、一般客も普通に買える。別に競りをやっているわけじゃないし、早朝しか売っていないというわけでもない。……何というか、露天の小売り商がたくさん集まっている、という感じ?
なので、余所者の私でも大丈夫。
それぞれの売り場にいるのは、商人なのか、それとも漁師さんの奥さんや娘さんなのか。とにかく、威勢のいい呼び込み……って、一日中あれやってたら、喉が潰れて声が枯れちゃうんじゃ……とか、威勢がよくなくて沈黙を守る売り子さんとか……、ま、色々だ。
全部この町の漁師さんが獲ったばかりの魚介類だろうから、鮮度は似たようなものだろう。毒のあるものを、明らかに素人の少女に無警告で売るような人もいないだろうし。
いや、毒のあるもの自体は売っている可能性がある。地球でも、フグとか、『毒でピリピリ痺れる感覚がいい』とかいうチャレンジャーには事欠かない。
見て廻ると、私が知っている……、いや、知っているものに非常に似た魚や、初めて見る魚が色々と並んでいた。
初めて見るとはいっても、だから地球にはいない魚だとは限らない。そもそも、私が魚屋やスーパー、そして水族館や図鑑、テレビとかで見て覚えているのなんて、ごく一部だ。マイナーで商品価値が低いやつは、獲れても漁師さんやその家族で食べて、市場には出回らないだろう。俗に言うところの、『漁師の魚』ってやつだ。それらはお金にはならなくても、決して不味いというわけじゃない。見栄えや知名度のせいで、良い値では売れないというだけだ。
それに、沖縄とかに行くと、青い魚とかが普通に売っている。
青いといっても、青魚、つまりサバ、サンマ、イワシ等のことじゃない。あれらは『背が青い』というだけで、別に身が青いわけじゃない。
でも、沖縄とかには、いるんだよなぁ、『青い魚』が……。イラブチャーとかね。
まぁ、そういうわけで、見慣れない魚も、私が知らないだけで、地球でも、外国や漁師町では普通に食べられているものなのかも知れない。
でも、ま、今日は『チャレンジャー』は無し。『限りなく、私が知っている魚に近いやつ』で行こう。
うむむ、さすがに遠洋漁業はやってないだろうから、マグロや鯨はないなぁ。
いや、近海でもマグロや鯨は獲れるか。毎日確実に入荷するとは限らないだけで。
この世界にマグロや鯨がいて、このあたりがその生息圏内であれば、だけど。
そして私は、適当に選んだ海産物を次々と買い込み、用意していた大きなずだ袋に入れていった。
袋は前もって詰め物である程度膨らませてあり、そこに入れた振りをして、そのままアイテムボックス行き。わざわざ私の買い物をずっと見張っている者がいるはずがないので(某女性騎士御一行を除く)、その袋にはいるはずのない量の魚介類が入れ続けられていることに気付く者はいないだろう。
ええと、イナダのようなものと、ハマチのようなものと、ブリのようなもの……、って、全部おんなじやんか!
あ、ここでは名前は変わらない? 出世しないのか。万年ヒラ魚かな?
そして、貝やら海藻やらも、色々と買い込む。味噌汁に使えるし、ツブ貝は歯応えが好きなんだよね。
あ、亀の手売ってる。あるんだ、この世界にも……。
いや、勿論、本当の亀の手ってわけじゃない。そういう名の甲殻類で、甲殻類のくせに岩肌に固着して動かない。フジツボの遠い親戚になるらしいけど……。
見た目が亀の手そのままで、割と美味しい。外皮を剥くのが少し面倒だけど。よし、買い占めておこう。
「お姉ちゃん、それ、気持ち悪い……」
市場の雰囲気と珍しい魚介類に眼をキラキラさせていたレイエットちゃんから、クレームがついた。まぁ、本当に亀の手を切り取ったみたいな外見だから……、って、亀を見たことあるのかな、レイエットちゃん……。
私の買い漁りは、順調に進んだ。おかしなのに絡まれることもない。
そもそも、荒くれ者が多く、網元や有力者達を中心に上下関係がしっかり確立している漁村や漁業の町に、ヤクザやチンピラが入り込む隙間はない。日々身体を張り命を懸けて働いている者達が、家族や仲間に手出しされて黙っているわけがない。そして、金蔓……いやいや、大切な従業員に手出しされた網元達も。
つまり、この町には少女誘拐犯とかは生息していないし、粋がったチンピラ達の分布区域でもなかった。
うん、いい町だな。
そして、たっぷりと新鮮な魚介類の仕入れを済ませた私は、機嫌良く宿に戻るのであった。
今日は、宿屋や食堂で普通の魚料理(加熱調理)を食べて、みんなと一緒に町の見物。このあたりの海洋関連の文明レベルも確認しておきたいからね。造船技術とか、航海術のレベルとか。
ま、これから海沿いの街道を進む予定だから、全部この町で調べなきゃならないというわけじゃない。適当に軽く見て廻り、あとは別の、もっと大きな街で確認すればいい。ここは所詮、小さな田舎町に過ぎないのだから。
よし、明日はこの町を出て、邪魔の入らないところで刺身を作るぞ!!




