69 元に戻る
さすがに、オラム伯爵も馬鹿な真似をすることはなく、どうやら諦めてくれたようである。
そして、伯爵がおとなしく退くらしいと知り、ほっとした顔の護衛達。
うん、殺気やら何やらで分かるんだろうね、ある程度以上のレベルの人には。決して手を出しちゃいけない、という相手のことは。
「くそ、小娘と思って甘く見過ぎたか! これ以上ゴネても、名を落とすだけで実利はないか……」
伯爵は、どうやら引き際を心得ているらしかった。物事は、始めることより、引き際を見極めることの方がずっと重要であり、そして難しかった。皆、それまでに投資した分を無にすることに耐えられなかったり、一発逆転の可能性を信じたりして、自分の失敗を認めず、そして被害をどんどん拡大していくのである。しかし伯爵は、その点においてはちゃんとした感覚を持っているらしかった。
「店は、売り戻す。弁当の売り上げ如きであんな物件を抱え込むのは面倒だし、大赤字だ。おかしな噂が広まってもかなわんしな……。一晩でここに移れたなら、どうせまた一晩で戻れるのだろう。いったい、どれだけの人足を雇ったのかは知らんが……。
もう手は出さんから、さっさと元に戻して、その、……おかしなデマや噂が流れぬようにした方が良いぞ、うむ」
おや、全面降伏と、勘弁してくれ、との白旗か。ならば、こちらとしても是非はない。
「分かりました。……で、売り戻す時に、買った時よりも高く、なんてことはないですよね? 普通、そういう時は迷惑料を込めて、かなり安くして売るものですよね、さんざん周りを振り回した挙げ句、自分勝手な無理を言うわけですから」
「う……、も、勿論だ。当然のことだろう、それは……」
渋い顔をしながらも、仕方なさそうにそう答える伯爵。
まぁ、そんなに値引くとは思えないが、高く売れたと喜んでいる持ち主の老夫婦や、心労に苦しんだ不動産屋に、少しは還元してあげないとね。
あれからすぐに、オラム伯爵は引き揚げた。
私は、とりあえずエミールをすぐに本店に戻らせた。ベルが心配しているに決まっているのに、放置するのは酷過ぎるだろう。
そして昼過ぎに支店に来るよう、不動産屋に伝言を頼んだ。伯爵が、あのまま直接不動産屋に行って話をする、と言っていたので、結果を聞くためだ。確認もせずに再移転はできないし、どういう話になったかを知りたいからね。この期に及んで伯爵がおかしな真似をするとは思えないけど、不動産屋が美味しいところを持っていこうとした可能性はある。
今回、不動産屋も振り回された被害者ではあるけれど、伯爵の言いなりになっただけだから、利益の大半は、本店の持ち主であった老夫婦と、私が受けるべきだろう。いや、ホント。
そして、迷惑を受けた私がわざわざ出向く必要はないだろう。そう、向こうが来るべきである。
「この度は、御迷惑をおかけしました……」
まぁ、別に不動産屋が悪いわけではなく、貴族の、しかも伯爵様のゴリ押しとなれば、断り切れなかったのも仕方ない。それに、伯爵からの提示価格は決して悪くはなかったため、老夫婦が納得して売ることにしたのならば、仲介業者である不動産屋に、罪はない。
それは分かっている。分かってはいるのだけど……。
「少しはフォローしてくれても良かったのでは……」
うん、そう思ってしまうのだ。
まぁ、あんな条件を呑むとは思ってもいなかったのかも知れないけれど、あれを断れば、伯爵は当然、次の台詞の用意をしていたはずであり、どんどん追い込みをかけてきたはずだ。最初に到底吞めない条件を出して、次に少し譲歩した条件に変えて、何か得したような気にさせる、アレだ。
うん、やはり、相手の思惑を外して、「最初から断られるに決まっている、ジャブとしての、適当に決めた無理筋の条件」をあっさり呑んだからこそ、あまり練られていない、穴があるズブズブの契約が結べたわけだ。多分、追い込みの最終地点は、もっと練られた条件だったに違いない。
でも、それは結果論だ。
あの時点で、少しは客を守ろうという姿勢を見せてくれたならまだしも、事前の予告もなく伯爵を直接案内してきて、私に考える時間もなく不意打ちをかけることを防ごうともしなかった。
案内は後日、ということにするとか、誰か店の者を走らせて一足早く警告を、とか、色々と方法はあったはずである。
なので、強気に出て譲歩を引き出すのに、私は何の良心の呵責も感じなかった。
そして、済まなそうな顔をする不動産屋に、伯爵のことを確認した。
「伯爵は、何て言ってきましたか?」
私の質問に、不動産屋は、別に困った様子もなく答えた。
「はい、この物件を買い戻してくれ、と。最初は、買ったのと同じ金額で、それに持ち主と私に幾ばくかの額を迷惑賃として、と申されましたが、元の持ち主は既にそのお金で息子夫婦や孫の住む街へ移るつもりで準備を始めているそうで、今更買い戻せなんて言えません。……かなり良い値段でしたからね、売り値。
なので、伯爵様にはその旨お伝えし、あの物件は、うちが買い取ることにしました。つまり、仲介物件ではなく、うちが所有する物件になった、ということで……」
あれ、何か、妙に嬉しそうだぞ?
「で、どれくらい買い叩いたのですか?」
「え……」
驚く不動産屋。
分からいでか!
あの伯爵は、『レイエットのアトリエ』の商品が目当てであって、別に小金稼ぎをしようとしていたわけじゃない。そりゃ、伯爵家であっても貧乏でお金に困っているところもあるかも知れないけれど、あの伯爵は身なりも立派だったし、護衛もちゃんといた。引き際もしっかりしていたから、多分お金には困っていない。そして、失敗に終わったこの件で、変な噂が広まったり名が落ちるのを一番心配していた。
……つまり、金払いは悪くなかった、ということだ。
それに、何より、振り回されて迷惑を受けた不動産屋が機嫌がいいのは、儲かったからとしか思えない。
「……家賃、下がりますよね?」
「え?」
「家賃、下がりますよね!」
「え、いや、その……」
「や、ち、ん! さ、が、り、ま、す、よ、ね!!」
「………………、はい……」
よし、勝った!
そして、既に本店の建物の権利は不動産屋に渡っていることを確認し、2号店の賃貸契約は今日いっぱいで解除、賃料その他は無し、ということで話を付けた。いや、元々、1週間は無料、という話だったし。
不動産屋が帰り、閉店時間を迎えると、すぐに戸締まりしてカーテンを閉めた。その後、商品を棚ごとアイテムボックスに収納。椅子や机、その他も全て収納。元々一時的な仮店舗のつもりだったので、あまり荷物を持ち込んではいない。それでも3~4日、場合によってはもう少しかかるかも、と思っていたのだが、予想外に早く終わってしまった。
最後に、扉に貼り紙。
『仮店舗は撤収しました。薬の販売は、本店に戻ります』
うん、たった1日だったけど、何人かのお客さんは、本店に行って、移転先を聞いてこっちへ来てくれたのだ。一時的なものだからそのうち戻る、とは言っておいたが、告知の貼り紙は必要だろう。
そして、エミール、フランセット、ロランドの3人に護衛されて、手ぶらで本店へと戻った。もう、この支店、いや、元支店に来ることはあるまい。また、おかしな貴族が現れでもしない限り。
「戻ったよ~」
支店を閉める時間になったのだから、当然、本店も閉店時間を過ぎている。扉は閉められ、木窓も閉じられているが、鍵は掛けられていない。ベルが、私が中にいないのに扉に鍵を掛けるはずがなかった。
そして、ベルは会計台で私達の帰りを待って……、いなかった。
あれ?
「あ、カオルさ……ちゃん、遅いですよ! 早く手伝って下さい!」
私の声を聞いて、奥から出てきたベル。なぜか、エプロンを着けている。
慌てていたのか、最近は定着していた「カオルちゃん」ではなく、「様」と言い掛けた。
「え、何? 何をそんなに焦っているの?」
状況が全く掴めずにきょとんとしている私に、ベルが叫んだ。
「お弁当ですよ! 明日のお弁当の仕込みをやらなきゃ、明日の朝に最初から始めたんじゃ間に合わないでしょう!」
いや、まぁ、確かに今日売った分は、煮物とかは昨夜のうちに出汁に浸しておいたり、色々と仕込みはしていたけど……。
「ああ、伯爵の件は、もう片付いたから。支店は引き払ってきたし、明日からはこっちで普通に営業するから、それはもういいよ」
そう言ってベルを安心させようとしたが、ベルは首を横に振った。
「駄目です。そういうわけには行きません。
今日お弁当を買って下さった方々が、夕方に来られました。そして、皆さん、明日の分も御注文を……。一緒に来られた同僚の方々も、御予約されました。合計、50個以上になります。
予約分だけ、というわけにも行きませんから、最低でも80個は作らないと……」
「えええええええええ~~っっ!」
今日の販売用に作ったのが、30個である。それでも、昨夜の仕込みと、今朝早起きして作るのは、結構キツかった。それが、80個?
「き、今日の売れ行きは……」
「勿論、完売です。宣伝をしていたわけじゃないから、最初は出足が遅かったのですが、弁当のことが知れ渡ると、一瞬でした。これは、明日は100個用意してもすぐに完売するかも……」
「な、ななな!」
食べ物屋は、辛い。
仕入れ、仕込み、調理、接客。とにかく、拘束時間が長く、立ち仕事、水仕事が多い。そして、売れ行きの予測を誤ると大量の廃棄食材を出してしまう。……まぁ、私の場合、アイテムボックスのおかげで廃棄によるロスは少ないが。
とにかく、私は、ずっと食べ物屋をやるつもりは全くなかったのである!
「じゃあ、どうして弁当屋なんかを始めたんだ?」
私の呟きを聞いたロランドが、そう突っ込んできた。
「薬や陶磁器、その他お金になりそうなものには関係なく、貴族が欲しがるようなものでもなく、そしてそれでも何かを売るからにはお客さんに喜んで貰いたくて、私に普通の方法で作れて自信があるものといえば、料理くらいしかなかったんですよ……。どうせ数日だけだと思ったから、1日30個くらいなら大丈夫、と思って……。
なのに、どうして予約なんか受けるのよ!」
ベルが申し訳無さそうな顔をするが、これは私の八つ当たりだ。早朝の時点では、今日1日で片が付くなどということは分からなかったし、お客さんが喜んで買ってくれるなら、ベルは勿論喜んで売り、そして予約を受け付けるだろう。私が喜ぶと思って。
確かに、売れ残るよりは完売した方がずっと嬉しい。利益、ということではなく、頑張って作ったお弁当が無駄にならず、お客さんに喜んで貰えた、という意味で。そしてそれは、一緒に作ったベルも同じであろう。
「……ごめん」
私は、素直にベルに謝った。
「で、どうしよう……」
私は、そおっと抜け出そうとしていたフランセットの肩を掴んだ。
「逃がさないよ?」
そう、人手は多い方がいい。
男達?
いや、男が作った弁当を食べたいと言う者はあまりいないだろう。
それに、そもそも、エミールとロランドが弁当作りの役に立つとも思えない。
「じゃ、頑張るか!」
そう言って、フランセットを引きずって奥の厨房へと向かう。
あ、その前に、アイテムボックスから薬品棚を出して並べなくちゃ。
男連中には、そっちの整理を任せるか……。




