38 蹂躙
近くの兵士を片っ端から両断する、鬼神フランセット。
剣で受けても意味がない。受けた剣ごと両断されるだけである。
たとえ多大な犠牲と引き替えにして運良く一撃を与えられたとしても、またすぐに甦るに違いない。それまでよりも更に強くなって。
そんなものに勝てるわけがない。
逃げた。
帝国兵は、形振り構わず全力で逃げ出した。
それを追う鬼神。
近くに味方がいない方がやりやすい。味方も一緒に切ってしまう心配をせずに、思い切り剣が振れるから。
この剣を。今日から我が愛剣となった、この神剣エクスグラムを。
あの日から人間の限界かと思える程の力を手にしたフランセットは、今手に入れた更なる力に酔い、身体の奥底から湧き出す歓喜に震えていた。
敵陣に。
もっと敵がいる場所に。
フランセットは走る。
自分が護衛すべき者のことなど完全に忘れ果てて。
ロランドは必死でフランセットの後を追っていた。
カオルに煽られて、単純なフランセットが完全に舞い上がってしまい、暴走した。ひとりにしておくと大変なことになる。
更にその後を追う、4人の近衛兵。
そしてその手に握られた、4振りの剣。
神剣『エクスフロッティ』。
グラム、リジルと並んで、シグルドが用いた剣の1振りの名である。
それを、『1振りの神剣を4振りに分割したもの。力は落ちるが、それでも切れ味と強度は神剣の名に恥じないものである』と言って4人に与えたものである。
ただの特殊合金製単分子剣。超高速振動機能は無し。精鋭近衛兵ならばそれでも充分だろう。
いや、あの眼、期待に満ちてキラキラと輝くあのチワワのような8つの瞳に見詰められて耐えられる女の子はいないよ、多分。
恐怖に駆られ、喚きながら形振り構わず全力で敗走する、精鋭部隊であったはずの帝国兵の群れ。それを笑いながら追う、ひとりの狂戦士。そのあまりにも速い追撃速度により、追いつかれた帝国兵の身体が次々と両断されていく。大きな笑い声と共に。
「き、鬼神が、神剣を与えられたぁ!」
「ち、致命傷だったのに、甦ったぁ! しかも、前より強くなってる!」
「あの御使い様は、人間じゃない! あれは、あれは、女神様の眷属だァ! 俺たちが手を出して良い御方じゃなかったんだあぁ!!」
先程の、空の大爆発。突如沸き上がった金色の雲。御使いの少女の警告。
そして今、死を撒き散らしつつ迫り来る、狂った鬼神。その後に続く、5人の死神達。
敗走する兵士達の叫びを耳にし、恐怖に囚われて帝国兵が動揺する。
そして、その恐怖に耐えきれなくなったひとりの兵士が徐々に後退り、遂には後方へと一直線に逃げ出した。
ひとりが逃げ出すと、ひとり、またひとりと次々と後に続き始め、あっという間に大規模な敗走が始まる。たちまち崩壊する帝国側の前線。
崩れた敵兵を追い回すフランセット。それを追いながら敵兵を切り捨てるロランドと近衛兵達。
「もうやっちゃったから、どうせおんなじかぁ。それなら、早く終わらせて死傷者を少なくした方が少しはマシか…。帝国軍敗走の原因はフランセット達だから、勝利は王国の兵士達の力で、と言える状況だし」
そう独り言を呟いたカオルは、前線より僅かに向こう側、帝国兵しかいないあたりの上空に薬品が入ったヒョウタン型の硝子瓶を出現させた。
そのふたつの膨らみの片方には『ニトログリセリンのようなもの』、もう片方には『濃硫酸のようなもの』が入っており、出現した直後にそのふたつが触れ合い、大爆発。それを2つ、3つと続けて行った。
そして次に、『ニトログリセリンのようなもの』だけがはいった小さめの硝子球を広い範囲の空中に作成。次々に降り注ぎ、地上で爆発が続いた。なるべく人がいない場所を選んではいたが、勿論そううまく行くはずがなく、それなりの数の帝国兵を巻き込んで死傷させた。
帝国軍は、前線付近だけでなく、後方の兵士も、更にその後方の輜重部隊に至るまで、全てにおいて敗走が始まっていた。
彼らの頭には、この思いしかなかった。
『女神様のお怒りを買った』
いくら53年の間姿を現さなかったとは言え、この世界では女神の存在は伝説等ではなく『事実』なのである。年寄りの中には、まだ女神様の御姿を実際に目にした者も居る。
今の現象は、女神様かその眷属にしか出来ない御技である。
爆発は悪魔にも出来るかも知れないが、治癒のポーションと、御使い様とも女神様の御友人とも呼ばれる少女の存在がそれを否定する。
そして鬼神フランの復活と神剣授与は、まさに神話の中の一節にしか見えなかった。
フランセットの手を逃れ生きて戻った突入部隊の兵士からそのことを聞いた西方侵攻軍の司令官と幕僚達は、絶望の表情を浮かべた。
彼らも、彼らを送り出した帝国の上層部も、少女はただ女神の祝福を受けて癒しの薬を創り出す能力を与えられただけの、世間知らずのただの小娘だと思っていたのである。
身柄を確保して丁重に扱い、聖国の教皇に会わせてうまく丸め込めば、聖国と手を組んでいる帝国の方が女神様側であり、他国がその敵、と思わせることが出来る。バルモア王国など、少女にとっては元々遠国から来て最初に滞在しただけの国であり、深い思い入れなどあるまい、王宮と大神殿とは揉めたとの事であるし、と考えていた。
それが、王国の兵士に対する復活の奇跡、神剣授与、そして帝国軍に対する神罰。これでは、丸め込むどころか、身柄の確保さえ不可能であろう。
近寄っただけで頭部が爆散? 誰が確保しに行くと言うのだ、そのような存在を。
それは、祝福を受けた少女ではなく、祝福を与える側の存在ではないのか。女神様直属の眷属か、もしくは、女神様そのものか……。
王兄ロランドとポーションのことをわざわざ声高に叫ぶなど、北方侵攻軍敗北の件と合わせて、全て謀略情報であろうかとも思ったが、かの鬼神フランが居たのであれば、本物か。しかし、そうなると、北方侵攻軍のことも…。
王国軍が無傷で帝国軍が全滅、というのは納得し難いが、女神の神罰を受けたのであればその可能性もゼロではないか……。
とにかく、もう撤退以外の選択肢はない。
失った兵はまださほど多くはないが、それでも王国軍よりは少数となった。 だが、そんな些細なことではなく、もう、士気が最低なのである。
女神の怒りを買い、神罰を受けた。
これ以上女神がお怒りになると、全員が神罰を受けて殺される。そして地獄に堕ちる。国にいる家族も皆、殺され、国ごと滅ぼされる。
そう思い込んだ兵が、まともに戦えるわけがない。
それに、任務は既に充分に果たしたはずだ。
王国軍の主力を引きつけ、王都に戻れないよう時間を稼ぐ。
それはもう充分に行った。もしあの話がデマであり北方侵攻軍が健在ならば、もうとっくに王都を包囲、攻撃して陥落させているはずである。もし今から敵主力が帰還しても、王都が落ちて王族、貴族が捕らえられていれば、降伏以外の道はない。と言うか、既に国が敗北して降伏している状態なのだから。
もし北方侵攻軍が本当に潰滅していたら?
それは知らん。それは向こうの指揮官の責任であり、我が西方侵攻軍には関係のないことである。
だが、その場合、山越えのためろくに騎馬も無く重装備も少ない4万弱の兵で数で上回る敵軍を破り、僅かな現地徴発以外には荷馬車も無い状態で行軍を続け、堅牢な王都に籠城した敵を破ることが可能であろうか。山越えで人夫が背負って運んだ僅かな物資しか持たず、現地徴発を繰り返しながら。
通常の状態ならばまだしも、この、最低の士気で、敗走しつつある軍を再編して、皆を説得し、鼓舞し、女神の神罰を受けながら。
……無理だ。
撤退すら出来なくなり、帝国は北方侵攻軍2万と西方侵攻軍4万、全ての兵を失う。
そうなると、残るは、我々の留守を狙ってアシード王国が攻め入らぬよう本国を守っている2万の兵力のみ。それは、帝国の滅亡を意味するだろう。
そもそも、時間がかかると、南からアシード王国、東からブランコット王国が援軍を出してくる。両国とも、バルモア王国が落ちれば次は自分達だということは良く判っているのだから。今にもアシード王国軍が突然南から現れても何の不思議もない。
長々と考えたが、結論は最初から決まっている。
ただ、自分を納得させるため、そして他の者が納得するために少し時間が必要だっただけである。
「撤退だ」
皆、黙って頷いた。
改めて命令を出すまでもなく、既に全軍が西へ、元来た方角へと移動していた。
それでも、命令は出さねばならない。我々は軍隊なのだから。
結局、王国軍の激しい追撃を受けながらもアリゴ帝国西方侵攻軍がようやく山の麓へと到達し、重い装備のかなりを捨てて険しい山脈の中へと姿を消して行った時、当初は輜重輸卒を除いて4万を数えたその兵数は3万前後まで減っていた。
2割5分の損耗。『全滅』と定義される3割の損耗まであと僅かであった。
一度も戦うことなく一割近くの兵を失った北方侵攻軍の捕虜達が無事戻れば、兵の損耗は合わせて約1万2千。帝国軍全兵士8万の1割5分である。
尤も、兵力の損耗率がどうであろうと、全軍が捕虜となった北方侵攻軍、全面潰走となった西方侵攻軍共に、完全敗北であった事には変わりは無いが。
その後、『中立であるルエダ聖国』を仲介役として少しでも有利に講和条件を纏め、御使い様との『誤解による不幸な行き違い』を説明し仲を取り持って貰おうとしたアリゴ帝国の皇帝を始めとする首脳陣は、聖国が完全に帝国の同盟国と見なされ敵国、そして敗戦国扱いされていること、女神から破門されて宗教的な主導権を完全に失ったことを知って愕然とするのであった。




