19 御使い
カルヴィン。
以前、セドリック付きの護衛であり、剣の鍛錬相手であり、長子であるセドリックにとっては兄のような、友人のような男であった。
ある日、セドリックが止める家臣を振り切って無茶な狩りを行い、襲いかかるグレイベアからセドリックを庇って大怪我をするまでは。
怪我のため左脚がうまく動かせなくなったカルヴィンには、当然のことながら護衛の任は果たせず、警備の兵士も、ハンターすら務まらない。
剣しか能のない男が戦えなくなり、しかも足が不自由とあっては、できる仕事は少なかった。
いくら剣士として働けなくなったとは言え、自分の愚かな行為のせいで将来を失ったカルヴィンを追い出すことなど出来るはずがない。子爵も勿論、息子の盾となって怪我をしたカルヴィンを無下に扱うつもりなどなかった。
そしてカルヴィンを、多少足が不自由でも務まる使用人として雇い続けることにした。
カルヴィンは、主家のお役に立てないならばと身を引くことも考えたが、他にできることもなく、また、賊が侵入した時などには、瞬間的な戦闘力は少しは残っている自分が使用人の中にいれば、隙を突いての反撃、この身をもって盾となる等、役に立てることもあるかも知れないと考えた。そして、使用人として働くことを決意したのであった。
セドリックにとり、自己嫌悪と罪悪感の象徴。
それを、この場に呼べと。己の愚かさを人々に見せろと。
セドリックの顔が歪む。
「カルヴィンを、呼べ、と、言うのか……」
「はい。お願いします」
セドリックの苦悩を知ってか知らずか、少女はじっとセドリックの眼を見つめてそう言った。
「…………」
沈黙。
会場は静まり返り、声を発する者もいない。
リオタール子爵さえ、黙り込んだままであった。
「カルヴィン、来い!」
そして遂に発せられる、セドリックの指示。
セドリックの近くに来た、左脚を引き摺るひとりの使用人。
「会場のみなさん!」
そしてカオルの声がパーティー会場に響いた。
「こちらが、カルヴィンさん。セドリックさんを守るため、グレイベアに立ち塞がった方です」
会場から、おお、と感嘆の声があがる。
自らの身体を盾にして王を守った王兄、ロランドのことを知らない貴族などいない。それに匹敵することを成した者は、賞賛されて当然であった。
「しかし、その時の怪我のせいで戦うことは出来なくなりました」
苦悶に歪むセドリックの顔。気にもしないカルヴィン。
そこでカオルは、テーブルから未使用のワイングラスを1つ手に取った。
「さて、主の子息を守るため我が身を犠牲にすることを厭わなかった忠義の者。そしてその忠義に対し、感謝を忘れず子爵家に留め置いた主。この者達には女神の祝福が与えられる資格があるのではないかと思う人は、右手を挙げて下さい!」
全員の手が挙げられる。
ここで空気を読まずに手を挙げない者はいないだろう。後で何を言われるか分からない。
「そして、その腕を前に突きだし、掌をこのグラスに向けて!」
ワイングラスを持った右手を突き出すカオル。
「願って下さい。女神の祝福を!」
場の雰囲気に飲まれ、言われた通りにする来客達。
そしてその時、カオルが差し出したワイングラスの数センチ上に現れる赤い霧。
驚く客達が見つめる中、霧はしだいに赤い水滴となり、水球となり、ちゃぽん、という音と共にグラスの中へと落ちた。
畏怖と驚きに声無き会場に、ただカオルの声だけが響く。
「さぁ、カルヴィンさん」
差し出されるワイングラス。
動けない、カルヴィン。
「あ…、ああ……」
カオルはカルヴィンに歩み寄り、その手を取ってグラスを握らせた。
「飲んで!」
震える手でグラスを口に寄せ、赤い液体を飲み干すカルヴィン。
そして……。
「動く……。元のように、左脚がちゃんと曲がる………」
始めは恐る恐る、そしてしだいに思い切り足を曲げ伸ばしするカルヴィン。
遂には飛び跳ねだした。
充分試して満足すると、セドリックの方を向いた。
「はは……。動きます。これで、また、セドリック様と一緒に、山に、野原に、剣の鍛錬、ま、また、またお守り、でき………」
あとは嗚咽で声にならなかった。
駆け寄り、カルヴィンの身体を抱き締めるセドリック。頬に流れる涙。
「カルヴィン、カルヴィン、カルヴィンっっ!!」
その感動の姿に、貰い泣きする人々。
主従の姿に、そして女神の奇跡を目にすることができた幸運に、会場中から聞こえる感動の声。女神の慈悲を讃える祈りが続く。
そして、この、数十年振りに顕された女神の奇跡をもたらした御使いの少女は、と人々が目を向けると。
黒髪の少女の姿は、既にどこにも無かった。
(いやぁ、凄いものを見た……)
娘を助けて貰った時に、薬の効果はその目で見ている。しかし、それでも、今のには驚かされた。
それに、商人として少しは自負のある自分でもすぐには揃えられるかどうかという、あの宝石……。いったい何者、って、何を言ってるんだ、自分は。
女神様の御使い様、に決まっているではないか……。
アシルは、誰にも気付かれないよう、ゆっくりと扉の方へと移動していた。
カオルがいつの間にか姿を消した今、自分が質問攻めに遭わされるのは間違いない。そして、自分には答えられる情報が何もない。
逃げなきゃダメだ! 逃げなきゃダメだ!!
扉まで、あと少し。あと少し……。
その頃、カオルは既に無事子爵邸から離脱、待機していた馬車に乗り、アビリ商会へと向かっていた。御者も商会の者であり、情報を漏らすことはない。尾行に備え、少し遠回りをして戻った。
もし跡をつける者がいれば妨害すべく待機していた数名の子供達の姿があったが、追跡者の姿はなく、その出番は無かった。
子爵家のパーティー会場には、数ヶ月前に王宮にて起きた奇跡に立ち会った者はひとりも居なかった。もし居れば、すぐにその類似性に気付いたことであったろう。
しかし、王宮で王の謁見に立ち会う者は身分が高く、ただの子爵家のパーティーに出るような者達ではなかった。また、皆年配者であり、結婚前の子供がいるような年齢層でもなかった。
また、『女神の涙』の恩恵を受けた王兄ロランド、騎士フランセットを始め、女神と言葉を交わしたというアダン伯爵家の者達に対して貴族や神殿側から余計な干渉が行われないようにと情報統制が行われたため、その『奇跡』について知る者は少なかったのである。
だが、今回の件が王宮と神殿、そして全ての貴族や平民達に伝わるのは、もはや時間の問題であった。
アシルもまた、子爵邸から逃げ出すことに成功していた。皆の頭にカオルを探すことしかない間に、うまく行方を眩ませることが出来たのである。
屋敷に留まると、父や兄たちに質問攻めにされるのは間違いない。それどころか、招待客達すら押しかけて来るかも……。
ここは、工房に逃げるしかなかった。
馬車も使わず歩いて帰ったため、工房に着いたのはかなり遅い時間であった。他に起きている者もなく、そっと研究室にはいり、作業衣に着替えると部屋の片隅で横になった。
不思議な力を大勢の前で見せてしまったカオルは、このまま姿を消してしまうのではないか。もう二度とここには戻って来ないのではないか。
自分が無理なことを頼んだせいで……。
まだ子供であるカオルに、正式に婚約を申し込む勇気はなかった。しかし、一日だけとは言え婚約者として振る舞い、父にもそう紹介しておけば、そのうち本当に、という下心が無かったわけではない。もっとも、それはカオルに『婚約破棄の前科が付くのはイヤ』と断られてしまったが……。
それでも、パーティーで父にカオルを会わせて、あとで『将来を考えている人だ』と言えば、反対はされないだろうと思っていた。父ならば、カオルと少し話せば、見た目だけでなく、カオルの本当の素晴らしさを分かってくれるはずだと思っていたのである。
なのに、カオルは兄への『交際申し込みの儀』に並んでしまった。そして、女神様の御使いとしての力を大勢の前で見せてしまった。
あの頭の良いカオルに、それが何を招くことになるかが分からないはずはないのに。事実、今まで隠し通していたのだから……。
私からカルヴィンのことを聞いて、同情したからか?
兄のことが気に入ったからか?
もう、カオルはここへは戻らないのではないか。
このままいなくなってしまうのではないか。
アシルの心は後悔に黒く塗り潰され、なかなか眠りにつくことは出来なかった。
カオルのアイテムボックスの中には、1本のガラス瓶がはいっていた。
『ふたの部分についていた、髪飾り型の宝飾品』も、『瓶本体に巻き付くように付いていた、首飾り型の宝飾品』も取り外されて、ただの安物の瓶に過ぎなくなった、1本の瓶が……。
『その薬品は、その時に考えた通りの容器にはいって出てくる』




