176 長いお別れ(ロング・グッドバイ)5
「いや、私はこのまま去った方がいいよ。せっかくみんないい人生を送ってるというのに、今、私が顔を出せば、またみんなが過去に囚われちゃうから……。
それに、私が思い出すみんなの姿は、あの頃の姿のままにしておきたいし……」
「…………」
言いたいことは色々あるだろう。しかし、私の言葉に、黙って俯くエミール。
他の者より圧倒的に若く見え、そしてこの世界の平均寿命より遥かに長く生きているエミールには、『老いず、死なない者の悲しみ』、そして『先に逝く者達を見送る者の悲しみ』というものが、少しは理解できているのかもしれない。
そして、どうせ会っても再び同じ刻を過ごすことは叶わないのなら、互いが壮健であることだけを確認し、それぞれが心に思い浮かべる相手の姿は、楽しかった頃のものの方が良いのではないか。
そう考える私の思いが分かってしまうであろう、エミール。
無理もない。エミールも、既に90歳近い年齢なのである。おそらく、多くの者を見送ってきたのであろう。仲の良かった者も、そうでない者も、大勢……。
まだ、エミールには一緒に同じ刻を歩んできたベルや、『女神の眼』の仲間達がいる。しかし、もしエミールがひとりきりであったなら……。
「……分かった。カオルは女神様なんだから、いつまでも同じ人間のところに留まることは、神界の理からは外れるんじゃないかと思わなかったわけじゃない。色々と考える時間だけは、たっぷりとあったからね……。
だから、カオルの好きなようにすればいい。
元々、俺達にはカオルを縛る権利なんかないし、そんなことをするつもりもない。
カオルはただ、好きなようにやって、この世界を楽しんでくれればいい。そのために、女神としての仕事から休暇を取って、友達である女神セレスティーヌが管理するこの世界に遊びに来てるんだろう?
そして、それによって救われる者がいれば……。
俺達は、既に救われた。だから、もうカオルが俺達のところに留まる必要はない。ただ……」
「ただ?」
「俺だけがカオルに会って話をしたということを知られて、奴らに半殺し、もしくは全殺しにされる俺のために、ポーションをひとつ置いていってくれ!
地下に隠してあるやつは、こんなことには使えないからな……」
あ~……。
そりゃ、あれは『女神の眼』みんなの宝物だろうからなぁ。その効き目が、っていうんじゃなくて、『私から賜った品』という意味で。そんなの、こんな理由で勝手に使えるわけがない。
今までも、『あれを使えば……』っていう場面で、何度も我慢したのだろう。でないと、今まで残っているはずがない。
でも、全殺しだと、ポーションが飲めなくて、本当に死んじゃいそうだぞ……。
よし、じゃあ……。
ほいっ、と……。
「危ないと思ったら、これ、飲みなさい。飲んだ後、しばらくの間、怪我が治り続けるポーションだよ」
「ありがたい!!」
そう言って、大喜びでポーションの瓶を懐にしまい込むエミール。
……いや、この時の私は気付かなかったんだ。
いくら折檻してもエミールがすぐに回復するらしいと気付いたみんな、特にベル、レイエットちゃん、フランセット達が凄惨な笑みを浮かべ、『自分だけカオル様とお話ししただけでなく、そんなものまで貰った、裏切り者』をどうするか、なんて……。
いくら殴ってもケロリと治る、っていうのが分かれば、エスカレートするよなぁ、やっぱり……。
「じゃ、元気でね!」
そう言って、立ち去ろうとしたら……。
「……元気も何も、そろそろポックリ逝っても、人生の元は、もう充分に取ってるからなぁ……。
それに、そろそろ、うちの実権も若い奴らに譲ってやらないとなぁ……。
隠居して、『女神カオル真教総本山』の守り役にでもなろうかな……」
そんなことを言い出した、エミール。
総本山、っていうのは、あの、私があげた家のことだろう。
ま、もういい歳なんだから、隠居してのんびり暮らすのもいいかもね。
……あ。
「ねぇ、『女神カオル真教』って、セレスティーヌを崇める『女神正教』とは対立していないの?
図書館の本には、そういうデリケートな部分は書かれていなかったけど……」
そう、そこを確認しておかないと、知らずに『NGワード』を口にして、揉め事になる危険性がある。
カレーとラーメンと贔屓の野球チームと政治と宗教の話はトラブルの元、というのが、世間の常識だ。……最初の3つは、この世界にはないけれど。
「ないよ」
……って、そんな、簡単に……。
「『女神カオル真教』は、セレスティーヌ様の『女神正教』から分離した一派、っていうことになってるから。
カオルを『女神セレスティーヌの御寵愛を受けし御使い様』であり、あくまでもただの人間として、聖人のひとりとして扱う『女神正教』に対して、うちは『カオル様は、女神セレスティーヌと同格である、女神の一柱』として扱う、っていうだけの違いだからね。どちらも、女神セレスティーヌとカオルを敬う、って点では同じだから。
『女神正教』の方でも、カオルが殉教して天に召された後は、セレスティーヌ様に次ぐ扱いだしね」
……それって、地球の某ふたつの宗教の関係のような……。
「それに、うちは布教はやっていないしね。
俺達、カオルに直接助けられた者、そしてカオルが女神だと知っている者達が、『女神正教』が言うような、カオルはただの人間であり女神セレスティーヌの御使い、っていうのをそのまま受け容れることができずに、自分達だけで勝手にやってるだけだから。
そして、あのフラン姉ちゃんやロランド兄ちゃん、その他諸々の有力者が世話役だったり信徒だったりするのに、手出しする者がいるもんか。別に、勢力を伸ばすだとか、他の宗派の利権を脅かすとかいうわけでもないのに……。
俺達の稼ぎは、純粋な商業活動だけだよ。……そりゃ、カオルのネームバリューのお世話にはなってるけどさ。
カオルに教わった、経済学とか商売のやり方とか、あれを駆使すれば、結構チョロかったよ、金儲けってさ……」
……。
…………。
………………。
こ、コイツら……。
逞しくなりやがって……。
もう、本当に、私の出番はない。
……って、90歳近い老人に、小娘が何をしてやるって言うんだよ!
今度こそ、本当のお別れだ。
「ねぇ、やっぱり、一度だけでもみんなと……。今夜の夕食だけでも、一緒に……」
エミールが、やはり諦め切れないのか、そんなことを言ってきたけれど……。
私は、黙って首を横に振った。
The Long Goodbye
『長いお別れ』、ってやつだ。
日本語訳のタイトルが、あまりカッコ良くないけど。
『さらば愛しき女よ』の方は、素敵なタイトルなのになぁ……。
まぁ、とにかく、引き際は綺麗にしないとね。
「あ、ちょっと待って!」
またまた、私を引き留めるエミール。
「お土産に、これ、持っていってよ。うちの名物、『カオル様煎餅』だよ。みんなの記憶を頼りに、なるべく実物に近付けた力作なんだよ!」
「どうして饅頭じゃなくて、煎餅なんだよ! 私の姿は、平面で表現できるということかアアアァッッ!!」
少しは凹凸があるわっっ!!
「カオル、いつになったら出発できるのよ……」
横から、レイコの呆れたような声が。
うるさいわっっ!




