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裏切り

「ア、ア――」

 キリキリと音を立て、ピアノ線が食い込み、寝取ってはいけない女を寝取った黒人のポン引きがかすれた喘ぎを上げ、靴のかかとは床に擦れて斜めに削れている。

 まさか公立図書館にポン引きがいると思わないだろうし、まさか図書館に殺し屋が絞殺用のピアノ線を懐にターゲットをおびき出したとは誰も思わないだろう。図書館には読書愛好家や作家志願がいて、目に見えない想像力で閲覧室ははち切れそうになっている。図書館でプロの殺し屋がターゲットを絞め殺すというのを想像するには推理小説を読み込む必要があるが、図書館というのは推理小説を馬鹿にしている。推理小説を置くくらいなら漫画雑誌を置くと文部大臣が言ったくらいだ。

 絞め殺したポン引きを一番人気のない図書館の歴史コーナーに放置して、革手袋を外して、ポケットに入れた。

 図書館を出ると、サキが待っていて、駄菓子売りの手押し車から冗談みたいに細長い円錐形のキャラメル・キャンディを二本買っていたところだった。

「そっちは?」と、サキがたずねた。

「絞殺。ピアノ線」殺し屋もたずねる。「そっちは?」

「あー、ピアノ線」

「ふたりで同じものを使ったら、目立つからやめようって言ったじゃないか」

「まあ、そうなのだが」

「このあいだだって、同じ毒を使ったし」

「たまたまだ」

 殺し屋はずるそうに笑った。

「ナタはどうしたの?」

「言うな」

 あれから三件の暗殺を請け負ったのだが、殺し屋が飛び出しナイフや毒の小瓶、サイレンサー付きの銃で暗殺を遂行するうちにサキはナタに対する熱狂を失った(殺し屋はそれを『正常化プロセス』と呼んだ)。

「なぜ、あんなにナタに狂っていたのか。分からないな」

「まあ、正気に戻ってくれてうれしい」

「南国の太陽は人を狂わせるな」

「雪国で一緒に仕事したとき、ターゲットを暖炉の火掻き棒で殺すって言ってきかなかった人、誰だっけ」

「わたしは春型人間なのだ」

「じゃあ、別の場所に行ったほうがいいんじゃない? ナタ病だって再発しないとは限らないし」

「でも、ここは稼げる。それは認めるだろう?」

「確かに。ナタ病罹患の危険を冒すだけの価値はあるかもしれない」

 いま、殺し屋のトランクには金と交換できる青色紙幣がパンパンに詰まっていた。

 ふたりは公園を歩いていた。青銅の半魚半人が抱える壺から水が流れ落ち、手漕ぎボートにはお互いを探るように触れ合う恋人たちがいて、青い腕章のタレコミ屋は船着き場でトウモロコシ粉とココアの混ざった飲み物をすすっている。

 ブーゲンビリアの向こうには東部地方出身者のために建築された社交会館があった。その大きなアーケードから、涼し気な影を纏った中庭の花々を通行人に見せびらかしていた。抑制された物腰の召使い、同郷の芸術家たちが生み出した絵画と彫像、他の地方の人間を犬に見立てたジョークの数々がこの館には秘められていて、これと同じものがあと十二地方分はある。

 公園のベンチは熟睡した人びとに占領されていて、休業中の野外劇場では憲兵将校がふたり、屋上階の階段から人を蹴り転がすコツについて熱心に意見を交換していた。

 暑いが穏やかで、ここが独裁国家の首都であることを忘れてしまいそうだ(憲兵が屋上から誰かを蹴り転がすことは自由国でもよくあることなのだ)。

「革命万歳! 独裁者に死を!」

 通り過ぎたばかりの野外劇場から。

 立て続けに銃声が八回きこえてきた。

「三十二口径とみた」殺し屋が言った。

「三十八口径」

「賭ける?」

「屋内で食べられるアイスクリーム。さっきのキャンディは細すぎて瞬きするあいだに消えてなくなるからいけない」

 ふたりの男が野バラのアーチから駆け出してきた。白い服に黒いネクタイで、眼鏡をかけた学生風で、その手には――三十八口径のリヴォルヴァー。

「ウム」

「チッ!」

 ふたりは殺し屋たちを追い抜いたが、すぐ後ろから四十五口径の銃声がした。ぐちゃぐちゃになった腹を押さえながら、憲兵将校が銃を向けてきた。

「わっ!」「かわせ!」

 殺し屋たちはすぐに左右に飛び退き、それから公園の小道を舞台にした決戦、学生と憲兵将校の交差射撃が始まった。

 両者が弾を使い切る。

 学生は肉がいくらか飛び散った顔を押さえながら、仲間に押されてその場から立ち去った。

 憲兵将校のほうは今度こそ死んだ。

 プロの見解。

「ド素人が」と、殺し屋。

「ちゃんと息の根を止めてから逃げろ」

「殺すのはいいけど、人に迷惑かけないでやってもらいたいね」

「我々はたまたま玄人だったからよかったが、何も知らない素人だったら、間違いなく流れ弾で死亡だ」

「どちらもあれだけ撃って、死人がたったのふたり。立派なガンマンだよ」

「そうだな。ところで、何か忘れていないか?」

「……ちゃんとおごるから、そうガッつかないでほしいな」

「前からアイスクリームの玉を五つ重ねたやつを食べて見たくてな」

「やればよかったじゃないか」

「分かっていないな。こういうのは他人の金でやるからおいしいのだ」

 燃料用アルコールや葉巻など、金になるものは配給制にして暴利をむさぼるこの国でも、さすがにアイスクリームを配給制にはできなかった。国営アイスクリーム店の営業で精いっぱいだった。サキは当然だが、国営店のものではないアイスクリームを要求した。

「〈テニエンテ〉か〈ガヴィオータ〉。それ以外は認めない」

 市電が市内を三週するくらい悩んだ末、サキは〈テニエンテ〉にすることにした。〈テニエンテ〉には格式があった。アイスクリーム・メーカーは金属と大理石でできた装置であり、普通の店であれば、アイスクリームの玉は三つ重ねるのが精いっぱいだが、〈テニエンテ〉では五つ重ねられた。〈ガヴィオータ〉では七つ重ねられるが、ひとつひとつの玉が小さくなっている。

〈テニエンテ〉は海沿いの遊歩道にあり、マホガニー材の目立つ店内では南国でアイスクリームを食べるだけの小銭に恵まれた幸運な人びとが五つ重ねたアイスクリームをなめていた。

 サキは大きめのコーンにストロベリー・チョコレート・ストロベリー・チョコレート・ストロベリーで重ね、殺し屋はコーンではなく、脚付きのガラス皿に三つ、メロンとバニラとリンゴを三つ乗せてもらった。

 大きな窓を取った明るい店内の、日光からギリギリの席でアイスクリームをたっぷり時間をかけて楽しむと、サキはそろそろ議員殺しが起こるとささやいた。

「この国では上院議員が月に最低ひとり、ひどいと五人殺害されるが、それでも議員というのは、民間市井のならずものみたいに片づけることは許されない。根回しをし、味方をつくり、死んで当然のクズとしての評判を作り出し、そして、殺す。そのお膳立てが整った」

 ヨット・クラブにやってきてみると、ロメロ議員はホールで新聞を読んでいた。ふたりがやってきたのを見ると、撞球室ビリヤード・ルームへ移り、既にゲームを始めていたふたりの少佐がキューを置いて、部屋をロメロ議員にゆずった。

 この議員は人を殺せと命じるときは遠回しな、もったいぶった言葉で命じるのだが、このときはそんな余裕がなかった。

「ハポン議員をすぐに殺せ」

 部屋に入るなりほどいた蝶ネクタイとイライラと擦られたマッチ、やたらと吹かされる煙草。

 ハポン議員は〈恩人派〉の上院議員で、ロメロ議員と同じ側の人間だ。

 つまり、味方殺しであり、あれだけさんざん持ち上げた〈恩人〉にロメロ議員は弓を引くのだ。

「どうして?」

「黙ってやればいい」

「そういう言葉はもっと自我の壊れた暗殺者のために使うのだな」と、サキ。「わたしたちはそれなりに好奇心がある。それにこれまで受けた仕事とは明らかに異なるターゲット。納得のいく理由をきけなければ、安全が保障されない」

「安全なら問題はない……先日、晩餐会があった。〈恩人〉も臨席でだ。ところが、事もあろうにその席次でハポンはわたしよりも上席に座った。これまで三つ下のハポンがだ。理由は知っている。あのクズは自分の娘を差し出した。まだ十三歳のな。ハポンには、〈恩人〉のために誰かを殺せと命じるだけの度胸がない。汚れ仕事をわたしが引き受け、わたしは従弟すら殺したのに、あのじいさんはやつの変質的な趣味を満足させた人間を重視するわけだ。とにかく、ハポンを殺せ。頭の皮を剥がして、わたしのもとに持ってこい」

「そういう特別な注文はオプション料金がかかる」

 ロメロ議員は薄く細長いがずっしりと重い木箱を渡した。なかには建国二百年の記念金貨が二十枚、ビロードの内張にはまり込んでいた。

「それで満足か?」

 殺し屋とサキはお互いを見て、うなずいた。



 ハポン議員は十三歳の娘を〈恩人〉に差し出し、自身は十二歳の少女を補佐官から差し出されていた。

「ウム。クズだな」

「クズだね」

 とはいうが、ふたりとも殺した相手がクズだからと自分の仕事を正当化するみたいな情けない良心は持ち合わせていない。

 十二歳の愛人は高級住宅街の外れに囲われていて、人の背丈ほどしかない椰子に挟まれた歩道の先にコテージがあり、ハポン議員は夜な夜なそこに通っていた。

 しつこく飛び回る蚊を叩きながら、道の脇の椰子に隠れ、変態議員の到着を待つ。サキは銃身を切ったショットガン、殺し屋は大ぶりのナイフ。

 スピーカーを積んだ車が愛国婦人同盟の焼き肉パーティーが行われていることを宣伝し、〈恩人〉を讃えるマンボがどこかの家からきこえてくる。

 道路で黒い大型自動車が歩道に寄せて停車した。なかからメガネをかけた背の高い男があらわれ、コテージへの歩道を歩いてきた。

 サキが膝を立ててショットガンを構え、二度撃った。一発目が議員から左腕をもぎ取り、二発目が胸に飛び込んで、後ろへ吹っ飛んだ。

 殺し屋は影のようにするりと椰子の葉をくぐると、灰色の髪をつかんで額の生え際にナイフを当てた。カミソリ並みによく研いだ切っ先で切り込みを入れ、刃を三十度の角度で頭蓋にあてながら、急がず髪を引くと、血管の走る膜に包まれた頭皮がじりじりと剥がれ、切り込みの少ない箇所にナイフをあてて、両耳の斜め後ろのあたりまで剥いで、ナイフをひねって、頭皮を切り取った。

 それを新聞紙で包み、裏手に停めておいた盗難車に乗って、近くの桟橋まで逃げ、車を乗り捨てるのだが、あらかじめ用意しておいた二人乗りのクーペに乗り換える――。

 だが、そこで待っていたのは二台のパトロール・カーだった。私服の秘密警察が四人。警部だという男が言った。

「ロメロ議員からの伝言だ。ちょっと段取りが変わった。きみたちには一度市外へ出て、隠れてもらいたい」

「どうして急に?」

「閣下は〈恩人〉と仲直りしたんだよ」

「ふぅん。じゃあ、頭の皮は?」

「必要ない」

「オプション料金は返さないよ?」

「かまわん。とっておいてくれとのことだ」

 サキとふたり、同じ車に乗ろうとすると、秘密警察のひとりが言った。

「それぞれ別の車に乗ってくれ。別のルートで〈真珠〉を出る」

 これは裏切られているなあ。

 殺し屋もサキも、この手の急な段取り変更には覚えがある。

「サキ。ちょっと」

 ふたりは集まって、ひそひそ相談した。

「どう思う?」

「間違いない。だが、まあ、普通の殺し屋なら意地でも、この車に乗らないだろうが、きみも、そしてわたしも普通ではない」

「たまには裏切られるのも健康にいいしね」

 ふたりはおめでたい暗殺者を演じて、別々の車の後部座席に乗り込んだ。

「じゃあ、サキ。また、あとで」

 大物の暗殺の後、下手人の口封じはよくあることだ。

 秘密警察の二台の自動車は海沿いの道路を走った。右側では夜の海が殺し屋たちに潮騒をきかせ、左側には繁華街の遠いネオンが見える。

 サキを乗せた車は前を走っていた。

(まあ、ちょっとロメロ議員のやった仕事について知り過ぎた気もしていたけど、ぼくをこんな目に遭わせるなんてね。すごく新鮮だよ。最近はなかった)

 助手席の秘密警察官が振り向いて、

「銃があったら、出してくれ。こっちで処分しておく」

「持ってきてない。ナイフはあるけど。いる?」

「もらおう」

 鞘ごとナイフを渡すと、殺し屋は懐から小さな紙片と鉛筆を取り出した。

「なんだ、それは?」

「新聞のクロスワードパズル」

 鉛筆を手に『縦のカギ。既製服のこと』の三文字を考える。

「分かんない」

「おれ、得意だぜ」助手席の男が振り返って言った。「クロスワード・キングだ」

「そんなの初めてきいたぞ」運転席の男が言った。

「じゃあ、王さま。既製服のことを三文字であらわすんだけど、二番目の文字が『ル』なんだ」

「なんだ、そりゃあ?」運転手が言う。

「ル、か。ル、ねえ」

 運転席の男がバックミラーに触れて、殺し屋のほうへ向けた。

「分かった。ツルシだ。吊るし!」

 クロスワード・キングがリヴォルヴァーを抜いた。

 殺し屋がその手に飛びつくと、発射炎が天井を焼き、布張りが燃え出した。

「はやく殺せ!」運転手が叫ぶ。

 殺し屋は相手の親指の付け根に鉛筆を刺した。痛みで握力が弱まって銃身が滑り――、

 バン!

 フロントガラスにクロスワードの回答がたっぷり染み込んだ脳みそが飛び散った。銃は反動で窓から飛んでいく。

 運転手がホルスターに引っかかった銃を抜こうともがいている。殺し屋は新聞紙を破り捨てて議員の頭皮で運転手の顔を塞いだ。

「ウググ!」

 息ができず、呻き、銃を乱射しながら、右へ左へ走り曲がり走る。

 バン!――ハンドルが折れる。

 バン!――殺し屋の頬のかすり傷から血が垂れた。

 バン!――フロントガラスが粉々になる。サキの乗った車が弾丸をまき散らしながら激しい蛇行運転をしている。

「ウゥ……」

 呻きが弱くなり、スピードが落ち、ついに止まる。

 運転手は痙攣して動かなくなった。

 海のそばのT字路。タイヤは海まで三十センチ。

 虫の鳴く音がきこえてきた。

 サキの車はまだ蛇行運転をしていて、車内の銃火はますます強くなっている。

「あはは。なにやってんだか。ああ、健康だな。裏切りを返り討ちにできるのは健康のしるしで――」

 パイナップルジュース会社のトラックが突っ込んで、殺し屋の車は海へと吹っ飛んだ。

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