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真珠

 その首都は〈真珠〉と呼ばれていた。

 市内の半分以上が低所得者向け住宅であったが(〈恩人〉の指示でスラム街の呼称は禁止されていた)、観光客を無限に収容できるリッチなホテルが衝立になって、見えないようにされていた。

 それにこのあたりの都市で市内の半分が低所得者向け住宅ではない都市など存在しなかった。

 だから、首都は真珠にたとえられても、問題はなかった。

 ないわけではないが、〈恩人〉がないというのならばないのだ。

 客船と常夏の〈真珠〉のあいだには入国管理局がある。それは船と船着き場のあいだにつくられたタラップの上にあり、そこには入国管理官がいる。この国では入国管理官はカーキ色の軍服を着て、左手に自動拳銃を握っていて、これも〈恩人〉の指図によるものだった。

 入国管理官には頭の禿げた年配の助手がいて、客からパスポートを受け取り、写真のページを開いて、入国管理官の空いている手に持たせるためだけにその職にあった(入国管理官が銃を手放さなかったからだ)。

 問題なければ、そのまま入国できるが、問題がある、あるいは問題があるか分からないが念のためと思われた不運な連中は荷物ごと、海に突き落とされた(だから、入国管理局は客船と船着き場のあいだの臨時タラップに作られていたのだ)。

 ショートヘアの少女、もしくは長髪の少年に見える殺し屋が偽造パスポートを助手に手渡したとき、殺し屋の足下では鞄にしがみついて浮いている男女が二十人ほどいた。

 偽装パスポートはあっさり通り、外国からやってきた副領事は本物のパスポート以上に本物の(外務大臣から手渡しされた)外交官用パスポートを見せたのに海に突き落とされた。

 そういうものなのである。

 知り合いの女殺し屋から、かなり稼げる! 来ないのはバカだ!と手紙をもらって、〈真珠〉にやってきたのだが、手紙にはもし警察や憲兵ともめそうになったら、大声で「恩人万歳!」と叫べば、かわせると書いてあった。

 手紙にはこうもあった。

『自分の考える自由と独裁者が与える自由とのあいだで帳尻をつけられれば、なんとか暮らせる』

 この手紙は検閲をかわした、かなり割高な方法で送られていた。

 入国管理局から南の海にダイブせず、人魚を象った街灯のある沿岸道にたどり着ければ、次に来るのは葉巻のおみやげ売りだ。殺し屋は葉巻売りの重包囲に陥ってさんざんは葉巻を勧められたが、その葉巻というのが、地元の人間が『あんな雑草吸うのはバカだけだ』と笑っている代物。他の観光客――善良そうな老夫婦――は浮浪児たちに取り巻かれ、小銭をせびられて、身動きが取れなくなっていた。その老夫婦は高価なカメラを首から下げていたのでカモに見えた。ゴリラみたいな警官が窃盗目的でカメラに手を伸ばした浮浪児のひとりの襟をつかんで、空高く放り上げ、落ちてきたところで警棒をふるって、頭を叩き割った。震え上がった老夫婦はそのままゴリラにパトカーに乗せられ、ゴリラに手数料を払うホテルに連れていかれた。浮浪児たちは死んだ浮浪児の服やパチンコなどわずかな持ち物を引っぺがし、保健所のバンが来るまで、死体は南国の殺人鬼じみた太陽光線の下に放置された。

 それを見て、殺し屋は不安になった。

「これが稼げるって? 命の値段が安すぎる」

 葉巻売りから逃げようと、一番近くに開いていたタクシーのドアに飛び込むと、白い綿毛みたいな髪を耳のあたりに残してきれいに禿げた黒人の運転手が言った。

「どこへ、お客さん?」

「アトラス通りの十三番地」

 運転手は観光客相手によくやる遠回りの運賃稼ぎはしないでおこうと思った。アトラス通りの十三番地とはそういう場所なのだ。

 車のエンジンがかかり、熱いボンネットで暑い空気の壁をうがつように走り出す。

 車から外を見る。柱廊を小さな椰子の鉢と靴磨きの椅子が占領し、カフェの前の日陰で女性ばかりの路上楽団がクラシックを演奏している。道の照り返しがひどい街路に必ずあるもぐりの眼科医院とサングラスの見本。カジキマグロの缶詰の看板。自動車が並んだホテルの前をキャラメル色のたラバが二輪の荷車を曳いていく。針金細工の鶏小屋。扇風機のセールスマン。バナナの葉で葺いたサトウキビ絞りの飲み物屋台。大きな麦藁帽をかぶった風船売り。司祭館の窓に並んだ薬草酒の青いガラス壜。防波堤の向こうで海に飛び込む子どもたちが歓声を上げていた。

 そのうち、白いシャツに青い腕章をした男や女が町のあちこちにいるのに気づいた。

『白シャツに青の腕章はタレコミ屋。他にできる仕事もあるのに選んだのが密告ネズミ。困ったものだ』

 手紙にはそうあった。ざっと見たところ、銃は携帯していない。軍人や警官ではなくカタギの人間のようだ。タレコミ屋はクズだが、特殊な技術がいることは認めなければならない。カタギの副業でできるようなものではない。

『タレコミ屋というよりは見張りだ。やつらにきこえるところで〈祖国の恩人〉のことをファック・モンスター呼ばわりしたら、それでジ・エンドだ。選挙の話はできる。与党に入れるのが前提なだけだ』

〈恩人〉のポスターはこれもまたあちこちに貼られている。映画のポスターや求人広告のすぐ近くに多色刷りでだ。

 ひょっとすると、高額ターゲットになるかもしれないので、あとでポスターをしっかり見ておこうと思い、手帳につけようとしたが、この手帳だって、誰かに覗かれるとも限らない。

 ちらりと運転手の、綿毛の白い後頭部を見るが、この運転手がタレコミ屋ではないという保証はない。

 しばらくは自分の頭のなかに手帳をこさえることにしよう。まさか、連中もぼくの頭をこじ開けたりはしないだろう。

 車からまた外を見る。白リネンの服を着た私服警官たちが飛び下り自殺した女のまわりに集まって、卑猥なジョークを飛ばしている。カーキ色の兵隊たちがハナツルソウの咲く庭で老人をライフルの銃床でぶちのめす。三階の窓から突き落される地下新聞の編集主幹。葉巻〈恩人〉の自動販売機の左右に自動小銃をもった完全装備の近衛兵が――儀式用の金モール、サングラス、ピッケルの生えたヘルメット、金メッキのボタンで胸を飾った近衛兵が、汗ひとつ流さず立っている(よく見るとそれはマネキンだった)。秘密警察のタレコミ屋が集まって、〈恩人〉を称える歌を唄っている(一番はクーデターでブルジョワ政権を張り倒したことを唄い、二番は飛行機と戦車でこの地域で最も強い国家にしたことを唄い、三番は外国から借金をして素晴らしい大統領宮殿を立てて民衆の誇りを作りだしたことを唄っていた)

 詐欺が誉められ、正直者が袋叩きにされる世界を真珠の形に圧縮したのが、この都市なのだ。

 しばらく走ると、手入れで道が塞がれていた。

 二階に生垣がある瀟洒な家からシャツ姿の男たちが頭の上で手を組んで、階段を降りてきた。階段というものは逮捕された人間が頭の上に手を組んだ状態で降りることを考慮して発明されたものではない。男たちは危なっかしいくらいふらふらしていた。

 男たちはなんとか階段を降りると、今度は憲兵たちがカービン銃でその背中を狙い、男たちは壁に手をついて、身体検査を受けている。

 道は憲兵隊の護送車に半分塞がれていて(護送車というよりは手首と足首を縛った人間を乗せて走る用途の、家畜用トラックだった)、青いオートバイのそばに憲兵隊長と私服姿の情報将校が談笑していた。憲兵隊長は髭をきれいにあたった若い男で汗で湿ったわきの下からすりつぶしたニンニクみたいなにおいがした。情報将校は時代遅れの口髭を生やした男で火のついていない葉巻を熱心に振り回しながら、何かを説明していた。

「しばらく続くなぁ。こりゃ」

「迂回してくれないかな」

「手入れを迂回? 冗談でしょ? そんなことしたら、こっちが痛くもない腹を探られて、あの壁に手をつくハメになりまさぁ。もう、あっしもヤバい橋渡るつもりで教えますがね。ここじゃ疑われるようなことはしないことでさ。選挙の話をするのはいいけど、熱くなっちゃァいけませんよ」

「倍の運賃払う用意があるんですけど」

「いくら金もらったって、ムショのなかまで持ち込めやしません」

 はあ、と後部座席に深々と座る。日差しはきつく、憲兵隊長のわきのにおいもきつい。もし、あいつをどこかの酒場で見つけることがあったら、香水をウィスキーグラスいっぱいに入れたものをバーテンダーに渡して、あちらのお客さまからです、と、やってやろうと考えるが、その空想がまたわきのにおいに撃滅される。

「アトラス通りの十三番地はここから遠いの?」

「いや、あそこに見えてる」

 アトラス通り十三番地は横に広い建物で正面に柱廊があった。日陰には大きな口をした娼婦、酒で身を持ち崩した男、箱型カバンを肩から吊るした郵便局員と様々な人種が集まっていて、手入れを安全な場所から見物しているようだった。

 そのとき、騒ぎがあった。壁に手をついた男たちのうち、一番小さな十三歳か十四歳くらいの少年が突然、壁から離れて走り出し、憲兵隊長にぶつかった。

 少年の手で何か光った。

 音と光に感覚を奪い取られた。返してくれと交渉して、感覚が戻ってくると、燃える火薬と血のにおいが混じった最悪な嗅覚が最初に戻ってきた。次に視覚が返ってくると、憲兵隊長のズタズタになった軍服がどす黒い肉をたっぷりつけた状態でスクラップになったオートバイに絡みつき、私服の情報将校は頭と胸がなくなって、肋骨がむき出しになっている姿で目に飛び込んできた。キーンとした耳鳴りはなかなか聴覚を返してくれなかったが、結局、殺し屋の手に戻る――というより、耳に戻ってくると、タクシー運転手の毒つく声がきこえてきた。

「なんてこった! これでますます動けなくなった。警察署で事情聴取させられる! お客さん、もう覚悟して――あれ?」

 振り向いた後部座席には『お釣りはいりません』のメモと一緒に赤色紙幣が三枚置いてあるだけで、殺し屋の姿は拭われたみたいに消えていた。

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