第十五節 『拝謁』
その日、ティファニア第一王子であるセルヴィス・ライティネン・ヨズル・ティファニエラは、五人の供を連れ水晶宮の廊下を移動していた。
歩きながらも、副官たちから政務に関する報告を聞き、必用であれば指示を出す。
彼は、父である国王、メイルスト・ライティネン・ガラル・ティファニエラが倒れてからは、王としての仕事を代行し、寸暇を惜しんで働いていた。
第二王子であるヴァリウス・ライティネン・ヨズル・ティファニエラは、武将としては優れているものの、内政にはあまり向いていない。
そのため、負担の多くはセルヴィスに圧し掛かった。
それでも、どうにか乗り切れているのは、第一王女であるドロティア・ライティネン・エル・ティファニエラが見出した優れた人材を自分の周りに置いているからだということを彼は理解していた。
アホの子と言わざるを得ない妹だが、初代ティファニア王である、ロムルス・ライティネン・ガラル・ティファニエラ以来である王族の〝祝福持ち〟の力は、彼女自身の無能と放蕩を帳消しにして余りあるだけの利を国にもたらしていた。
部下とやり取りする一方、思考の片隅で妹のことを考えていたセルヴィスは、前方にその当人の姿を発見し微かに頬を緩める。
「お兄様ぁ!」
そう大きく声を上げ、はしたなくもドレスの裾を持ち上げ駆け寄ってくる妹を見て、セルヴィスは子犬を連想する。
幼少期は感情の起伏に乏しく、ほとんど印象に残らない少女だったはずだが、思春期を迎えたあたりから妙に人懐こくなり、最近は幼少期にあまり話さなかったのを取り戻そうとでもするかのように、家族にも積極的に甘えてくる。
頭が足りておらず、己の親衛隊のほとんどを自分の愛人にしているうえ、彼らの生殖機能を奪っているという、破滅的なモラリティの持ち主である妹を、彼は家族として深く愛していた。
それは、父と弟にしても同じことだとセルヴィスは知っている。
父も弟も同じ王族としては尊敬していたが、蛇の巣の如き王宮では、家族相手でさえも気を許すのは難しい。
その点、〝祝福持ち〟という異才を除けば、絵に描いたようなポンコツである妹だけは、権謀術数などとは無縁の存在であり、家族として安心して接することができるのだ。
「お兄様、つかまえたぁ!」
胸に飛び込んできた妹を、セルヴィスは咄嗟に受け止める。
「ははっ! こらこらティア。転んだら危ないだろう? それに、もういい歳なんだから、そろそろお転婆は卒業しなくてはね」
「もぉう! お兄様ったらぁ、女性に年齢のことを言うなんて失礼なんだよぉ!?」
そう舌足らずに言って、ドロティアは頬を膨らませる。
こういう仕草が、一部の男を魅了するのだろうなと、セルヴィスは何となく思う。
この無垢さと幼い容姿が、保護欲を誘うというのは理解できなくもなかった。
「セルヴィス殿下」
声を掛けられ、セルヴィスがドロティアの背後を窺うと、妹の親衛隊隊長とその部下と思しき鎧兜を着用した騎士が跪いている。
「サルヴァか。久しいな」
「はっ! 殿下におかせられましては益々の――」
「あー、よいよい。堅苦しい挨拶は好かん。それより、アタラティアの件は貴公の差配で落着したと聞いている。囚人兵の派遣で済まそうとしたのは余の落ち度であった。礼を言うぞ」
「もったいなきお言葉、祝着至極に存じます」
サルヴァに頷いてから、その斜め後ろに控える鎧の騎士に、セルヴィスは視線を移す。
「その方もドロティアの親衛隊員か?」
「貴様、陛下の御前であるぞ! 兜を脱がぬか!」
取り巻きに一括され、騎士は兜を脱ぐ。
「ほう、初めて見る顔だな。新入りか?」
セルヴィスに問われ、若い騎士は視線を地面に落したままに応じる。
「先日のブシュロネアとの戦における武功をお認めいただき、畏れ多くも第一王女親衛隊の末席にお加えいただきました、ミツキ・クロッソと申します」
セルヴィスは、ミツキ・クロッソと名乗った騎士の左目下に大きな湿布が貼られていることに気付く。
「その顔、ブシュロネアとの戦で?」
「お目汚しかと思い、兜を脱がなかった非礼、どうかお許しください」
「かまわんよ。それにその傷、国を守るために負った傷というならむしろ誇るが良い。妹が選んだということは、能力はもちろん忠心についても申し分なかろう。地位に見合うだけの働きを期待するぞミツキ・クロッソよ」
ドロティアと少し話し込んだ後、セルヴィスは供を引き連れ去って行った。
「ミツキ、顔は覚えたね?」
「ああ」
新米の親衛隊員に成りすまし、ドロティアの護衛という名目で第一王子に近付いたミツキは、王子の人となりに触れたことで、憂鬱を味わっていた。
第一王子セルヴィス・ライティネン・ヨズル・ティファニエラは穏やかだが意志の強そうな顔立ちの好青年だった。
装飾の施された膝丈ほどのコートに身を包み、細身の赤いボトムスの裾を緑のショートブーツにたくし込んでいた。
首には白いレースのクラヴァットが巻かれ、胸元までを飾っていた。
そして、ワインレッドの長髪はドロティアのアッシュピンクの髪と近い色合いで、ふたりの血縁関係を感じさせた。
妹姫に愛情を示し、戦で傷付いた兵に労いの言葉を掛けるその振る舞いからは、善良な人柄が窺い知れた。
そんな人物を暗殺しなければならないのかと思えば、気落ちするのも当然だった。
「どうしたミツキ? 顔が暗いぞ」
「どうでもいいだろ? ってかブシュロネアとの戦、どうしておまえの手柄ってことになってるんだよ!」
「仕方ないだろう。セルヴィス殿下はキミらの殺処分を進めようとしていたんだ。ティアが無理を言って引き取ったけど、軍事行動なんてとんでもない。アタラティアへの援軍も、第一王女親衛隊の中から〝祝福持ち〟数名を派遣したということになってる。ちなみに副王ウィスタントンとはレミリスを通じて口裏を合わせている。もしキミらが隣国の軍をほとんど四人だけで壊滅させたなんて知られたら、評価されるどころか危険視されて、上の王子たちは間違いなくキミらを生かしておかないよ」
「よくバレないな」
「アタラティアなんて副王領の中でも一番の僻地だからね。王都じゃ誰も気に留めないってのがひとつ。それに、この王宮にはティアに取り立てられた人間が多い。情報操作はお手の物というわけさ」
セルヴィスの言葉を聞き、ミツキは遠ざかる兄に手を振る王女に視線を向ける。
ドロティアに向けられたセルヴィスの笑顔には、妹に対する愛情が滲んでいるように、ミツキには感じられた。
そして、セルヴィスに駆け寄り抱きついたドロティアも、兄を慕っているように見えた。
そのドロティアが、セルヴィスの暗殺を容認しているというのが、ミツキには信じられない。
否、容認どころか、首謀者と言っても過言ではあるまい。
だとすれば、普段の屈託のない笑顔も邪気の無い振る舞いも、すべて演技だというのだろうか。
「あぁぁん、みっちぃってばあ!」
そう言って唐突に抱き着いてきたドロティアを受け止めたミツキの二の腕と首筋に、鳥肌が立つ。
庭園での出来事を境に、ミツキはこの王女に対し、言いようのない生理的嫌悪を覚えるようになっている。
鳥肌程度ならまだいいが、長く触れていると蕁麻疹が出そうだった。
「ティ、ティ、ティ、ティア様!? お、お、お、お戯れはお止めください」
「ええぇ? だってだってぇ、みっちいお顔がなんか暗いんだもぉん」
ミツキはどうにか引き剥がそうとするが、相手の立場を考慮すれば強引な真似はできない。
首元が痒くなってきたところで、サルヴァがドロティアを引き離した。
「あぁん! もう、何するのサルヴァ?」
「ティア、ミツキは戸惑っているんだよ」
「戸惑うって、なににぃ?」
「ティアがセルヴィス殿下にしようとしていることに」
王宮内ということもあり、サルヴァは明言を控える。
「ええぇ? なんでぇ?」
「ふたりの仲が良さそうだったからじゃないかな」
「お兄様とは仲良しだよぉ? それにぃ、わらわわお父様とも小兄様とも仲良しなんだぁ。みんなだぁい好きぃ!」
実はこの王女は何もわかっていないんじゃないかと、ミツキの心に疑念が浮かぶ。
「お辛くはないのですか? その……」
「お父様が死ぬことと、お兄様を殺すことが?」
ミツキが言い淀んでいたところ、ティアは取り繕いもせずそう言った。
さすがのサルヴァも慌てた様子で周囲を見回す。
「それは悲しいよぉ? でもでもぉ、仕方のないことなんだよぉみっちぃ。お父様が亡くなったら、お兄様たちにわ居なくなってもらわないとぉ、みんなが困るんだぁ。それにぃ、なによりわらわがぁ、ダーたちと一緒にいられなくなっちゃうんだよぉ。それってぇ、とってもとっても悲しいことだよねぇ」
ドロティアは再びミツキに抱きつき、上目遣いの視線を向けながら言う。
「だからぁ、わらわわぁ、我慢してお兄さまたちを殺さなきゃいけないんだぁ。みっちぃもぉ、我慢してお兄様を殺してくれるんだよね?」
「……は、い」
「うぅん! やっぱりみっちぃだぁい好きぃ。後でいぃっぱいご褒美あげるね!」
そう言って笑顔を向けて来るドロティアに、ミツキは薄寒いものを感じていた。
いったい何がこの娘をこうまで歪めたのか。
王族という境遇か、〝人見の祝福〟という異能の代償か、ミツキにはとても計り知れない。
唯一わかるのは、自分が近いうちに、あの若く善良そうな王子を手に掛けねばならないということだけだった。
ティファニア国王、メイルスト・ライティネン・ガラル・ティファニエラの崩御が伝えられたのは、その出来事のわずか二日後のことであった。




