第十節 『霧』
第四街道の迎撃地点は遮蔽物の無い平地で、街道の真ん中に立ったサクヤの前方には地平線が広がっていた。
石畳の街道の左右は見渡す限りの草原で、灌木が点々と生えている以外は特に目に付くようなものはない。
しかし、サクヤの第三の目は、草原や木陰に潜む複数の魔力反応をサーモグラフィーのように捉えていた。
おそらく魔獣なのだろう。
この世界の人間では侵入するだけで危険なのは間違いない。
しかも、これでも闇地としては低深域だというのだから、ヴァーゼラットをはじめとしたアタラティアの武官共が過剰に恐れるのも無理はなかった。
闇地を抜けてアタラティア領内に侵入するというミツキの推理は、やはり先入観が無かったからこそできたのだと今ならわかる。
「賞賛すべきは、そんな作戦を企図した奴らの蛮勇だな」
そう言って、地平線の向こうから進軍してくる集団に目を向けた。
遮蔽物の無い平野だからこそ、遠方に迫るブシュロネア部隊がよく見える。
一方、ブシュロネア側は未だサクヤに気付いていない。
人の視力では確認できない程、両者の距離は開いている。
とはいえ、相手がサクヤを発見するのに、そう時間は掛からないだろう。
「であれば、防御魔法など使われんうちに、こちらから仕掛けるに限る」
打掛の袖から両手を出し、両の掌を上に向けると、そこからドライアイスのような霧が発生した。
不思議なことに、無風であるにもかかわらず、霧は前方に向かって流れ出す。
そして、サクヤの背後にはまったく流れない。
「そう言えば、見届け役の兵士が後方に控えていたな。一応、警告しておくか」
街道の端に生えた樹上からサクヤを監視していたアタラティアの兵士は、突如前方に出現した濃霧に困惑していた。
霧はあの少女から発生したように見えた。
であれば、魔法なのだろうとその兵士は推測する。
しかし、このわずかな時間で、あれ程の霧を発生させることなど可能なのだろうか。
何しろ、霧は既に前方一面を覆い隠し、兵士の目にはまるで巨大な壁が出現したかのように見えた。
しかも、後方へはまったく流れて来ないのが不気味だ。
やはり只者ではなかったのだと、兵士は今更ながらに納得していた。
ティファニア首都から派遣されて来たという四人組が、各街道でブシュロネア先発部隊の迎撃に当たると決まり、斥候であるその兵士は第四街道への案内と作戦の見届けを命じられた。
兵士が案内することになったのは、髪も肌も蝋のように白く、瞳ばかりが紫に光る、人形のような少女だった。
異常なまでに端正な顔立ちだが、その顔を長く見ていると身の竦むような不安が沸いてくる。
それゆえ男は、できる限り少女を直視しないよう努めたが、当の少女は街道までの道中、不躾な程に様々な質問を投げかけてきた。
周辺の地理や生態系、アタラティアの文化、風俗、政治、軍組織の構造、闇地についての情報、敵国ブシュロネアへの印象等々、自分でも不自然と思う程の従順さで兵士は問われるままに答えた。
そして、ある時唐突に、少女は一切会話をしなくなった。
おそらく少女の目的は情報収集だったのだろう。
これ以上得られる情報がないと判断した瞬間、彼女の己に対する関心は完全に喪失したのだと、兵士は何となく察していた。
見た目の幼さに反して、中身は相当に老獪なはずだ。
否、老獪というより、得体が知れないというべきか。
できれば深く関わりたくはなかったが、作戦の成否を見届けるよう上官から厳命された以上、ここに留まっているべきではないだろう。
霧は前方の視界を完全に覆っており、ここからでは何が起きているか全くわからないのだ。
気は進まなかったが、霧に突入するため樹から飛び降りようとした兵士は、ふいに肩を掴まれ息を呑んだ。
「止めておけ」
それは、間違いなく前方にいたはずの少女の声だった。
咄嗟に前を窺えば、霧のカーテンの内側に、確かに少女の後ろ姿が確認できる。
では、今背後から己の肩を掴み、耳元で囁いたのは何者なのだ。
兵士はおもわず悲鳴を上げかけたが、喉が引き攣り声を発することができない。
手足も金縛りにあったように硬直している。
「あの霧に入れば命はない。死にたくなければここで大人しくしていることだ」
そう囁いてから、肩を掴んだ手は離された。
途端、兵士は大きく息を吐き出し、弾かれたように後方を窺った。
しかし、背後には誰もおらず、微風に揺れた木の葉が微かに騒めいているばかりだ。
再び前方を窺えば、少女の背中がゆっくりと霧の中へ姿を消すところだった。
「な……何だったんだ、今のは?」
魔法ではない。
己の理解など及ばぬ、得体の知れない業であると兵士は本能的に感じていた。
兵士である以上、死ぬ覚悟はできているが、あの女の力に触れることは、きっと死よりも恐ろしいはずだ。
たとえどんな罰則を受けることになろうと、もはや兵士は霧の中に入る意思を失っていた。
あたり一面が白く濁った世界を、サクヤは歩いていた。
この霧の中は己の胎内も同然だ。
たった今、敵集団の先頭が霧に飲まれたのを感じた。
であれば、殲滅は時間の問題だろう。
しかし、先を見据えるならそれだけでは不十分だ。
「……少々血を流す必要があるか」
小さく呟きながら、霧の街道を進み続けた。
時を同じくして、アタラティア本陣の天幕には副王と幕僚たちが集結していた。
彼らが取り巻く中心には、レミリスとアリアの姿がある。
アリアが革張りのケースから取り出した板をレミリスに渡すと、周囲がどよめいた。
「王耀晶のタブレット!」
誰かがそう呟いた。
王耀晶とは、ティファニア王家専属の魔導士と職人のみが創り出すことのできる魔素の結晶で、王家の権力の象徴とも言うべき物質だ。
その特性として、魔法を掛ければ効力を大幅に増幅させることができるうえ、半永久的に効果を持続させることも可能。
また、魔力を通すことで、無色透明な結晶は様々な色に変化する。
そのため、一種の宝石としても価値を認められていた。
その効能と美術的価値、そしてなにより希少性ゆえ、好事家や魔導士にとっては垂涎の的であり、欠片程度でも小城が建つと言われている。
価値を知る貴族らが血眼で見つめる中、レミリスが魔力を通すと、鮮やかな翠色に色付いたタブレットに四分割された映像が映し出された。
「出発前、観測手として同行させる兵士四人に魔法を掛けさせていただいた。この王耀晶のタブレットには彼らの視覚情報が送信されている。丁度各地での迎撃が始まるところのようだ」
「しかし、右下の画面だけは真っ白で何も映っていないようだが」
副王の疑問に、レミリスは振り向きもせず答える。
「おそらく第四街道でしょう。あの小娘は闘技場での選抜でも霧を発生させ、魔獣をものの数秒で駆逐してみせている」
「ほう? 闘技場での選抜というのが何のことかはわからないが、単独で魔獣を倒すとは心強い。して、どのような魔獣を倒されたのかな?」
「さて、何だったか?」
「八角地龍でございます」
レミリスの代わりにアリアが答えると、周囲の幕僚たちが騒ぎ立てた。
「馬鹿な! 中深域の魔獣だぞ! 討伐には大隊規模の兵力が必要だ!」
「しかし、以前天幕で見た、他二名の魔力を鑑みればあり得んわけでもないだろう」
周囲のざわめきなど意に介すこともなく、レミリスは画面に視線を注ぎ続けた。
「あの小娘は問題あるまい。しかし、四カ所すべてで迎撃を成功させるとなると……」
そう呟くと、周囲の目を憚ることもなく、スキットルに入れた蒸留酒を一息に煽るのだった。
地獄が広がっていた。
先程まで何の問題もなく行進していたブシュロネア先発隊の兵士たちは、体の穴という穴から血と膿を溢れさせ、全身を赤紫色に腫れ上がらせた姿で絶命していた。
そんな中、ただ一人だけ動く者があった。
その年若い兵士は、闇地の中でも濃い瘴気に包まれた土地を開拓している村で生まれ育ったため、毒に対し耐性を身に着けていた。
また、出征を前に、母親が持たせてくれた防毒用の布で口と鼻を覆っていたのも功を奏した。
無論、母親がこのような事態を想定していたわけではなく、闇地の瘴気の恐ろしさを知るからこそ、闇地を貫く街道を通って隣国に攻め入ることとなる息子を想って持たせたのだ。
しかし、それも結局は、若者の死をほんの僅かな時間引き延ばす程度の効果しか発揮することはないだろう。
全身を蝕む毒に苦しみながら、一体何が起きたのかと若者は思考する。
進軍は順調だった。
最も懸念されていたのは、ティファニア軍がいち早く自分たちの目論見に気付き街道を登ってくるというケースだったが、結局敵は街道口の守備を固めたまま動こうとはしなかった。
斥候の報告を受け、後は作戦通り街道から外れる予定の闇地低深域までは問題なく進軍できるはずだった。
それが、突然前方から流れてきた霧に包まれた途端、周りの仲間たちが苦しみだした。
彼らはみるみる皮膚が爛れ、呼吸もままならなくなり、気付けば自分を含めたすべての兵が倒れ伏していた。
経験から、この霧は闇地の瘴気にしては凶悪過ぎるということは確信できた。
であれば、ティファニアからの魔法攻撃である可能性が極めて高い。
おそらく、作戦は露見していたのだろう。
それにしても、この状況は予想外と言わざるを得なかった。
若い兵士はそれなりに魔法の知識を身に着けているつもりだったが、これ程凶悪で悍ましい魔法など聞いたことがなかった。
そして、この魔法を自国内で使われでもしたら、ブシュロネアは敗戦どころか滅亡するだろうと容易に予想できた。
どうにかして、後方の味方に伝えなくてはならない。
若い兵士は使命感に突き動かされ、腐りかけた体を僅かに捩った。
すると、涙と漿液で滲む視界に、人影らしきものを捉えた。
馬鹿な、と彼は思った。
この毒の霧の中でまともに動ける者がいるというのか。
やがて人影は、霧の中でも姿が視認できるほど、彼に近付いて来た。
その正体は、霧がそのまま人の形を成したかのように、髪も肌も純白の少女だった。
一方で、唇や爪は血に濡れたような紅、瞳は紫で、しかも額に第三の目が開いている。
人ではないと若い兵士は直感した。
ならば魔獣だろうか。
闇地の奥深くには、人型の魔獣も生息すると噂に聞いたことがあった。
否、そもそもここは街道の内側だ。
つまり、魔獣が侵入することなど不可能なはずだ。
それでは、この少女のような姿をした得体の知れない存在はティファニア軍に属しているのか。
それとも、この戦争とはまったく関わりのない超自然的な存在なのか。
己の理解を超えた状況に混乱する兵士を余所に、サクヤは周囲を見渡した。
「首尾は上々。では、ここらで儀式を始めるか」
そう呟くと、左の手首に右人差し指の爪を立てて滑らせる。
一瞬の間をおいて、手首から鮮血が迸り、既に兵士らの体液で塗れた大地を更に紅く濡らした。
サクヤは血を流し続ける手首など意に介した風もなく、遠くを見つめながら口を開いた。
「ヤエカナルタマノススミダレシカゴウノオウナルヤフルミコトノコウグサユエスエノナカツハヒノイリテカツラギニマシマスギョウグノマレニイサレスジコクホウホウタルヤカノミズホノツグノイヒボウダチタルケンセンニテホツマツタエナルハゴコクノホロビニサウラへバツクヨノカガリトヨミノオオスナヲワガアシサキニオトシタマヘ」
その奇妙な祝詞は、微かに日本語のようなニュアンスを含んではいるものの、少なくとも現代の日本語とはまるで異なる言語で唱えられた。
最後に、血を滴らせた左腕を何かの文字を描くような軌道で振ると、サクヤの足元がボコリと脈打った。
地面が動いたわけではない。
動いたのはサクヤの足元に落ちた影だった。
若い兵士がその光景を冷静に観察していたなら、そもそも霧によって陽光が遮られているのに、どうしてこれ程濃い影が落ちているのかと疑問を覚えたことだろう。
その影は、二度三度と波打つと、急激に膨張を始め、瞬く間に大地を黒く塗り潰した。
すると、間もなく地に伏した兵士たちの亡骸は、影の中へと沈み始めた。
「ひぃ……な、んだ、こ、れは」
若い兵士は自分が影の中へと飲まれていることに強い恐怖を感じ、おもわず悲鳴を上げていた。
妖女の目が己に向けられ、兵士は咄嗟に口を押さえたが、その紫の瞳は一瞬で興味を失い、何も見なかったかのように元の方向へと戻された。
まるで、路傍で命が尽きかけた虫を目にしたかのような様子だった。
そのあまりにも酷薄な反応は、若い兵士の恐怖心を更に増大させた。
腐れかけた体を必死に動かし、どうにか抵抗を試みるも、まるで底なし沼にでもハマったかのように、体は際限なく沈んでいく。
やがて、首まで沈み切り、顔だけを辛うじて地上に覗かせた若者は、兵士としての誇りも使命も忘れ、血混じりの涙を零しながら小さく呟いた。
「嫌だ……母さん……死にた――」
ドプン
白い霧と黒い影に塗り潰されたモノトーンの世界に、ただ一人サクヤは立っていた。
血を滴らせていた手首をべろりと舐めると、傷口は跡形もなく消えていた。
「まあ、こんなものか。〝戻れ〟」
まるでサクヤの言葉が聞こえたかのように、地平まで広がったかに見えた影が一瞬で収縮し、何事もなかったかのように彼女の足元へ収まった。
霧は未だ晴れていなかったが、彼女にとっては好都合だった。
手っ取り早く作戦を終わらせたのは、他の三人の様子を観察したいからでもあったのだ。
彼女の〝目〟の代わりを果たす虫はミツキらに気付かれないよう付けてある。
そして、この毒霧の中であれば、誰にも邪魔されずに観戦することができるはずだ。
相貌を閉じ、額の目を大きく開くと、紫水晶の瞳がひときわ怪しく輝き、サクヤの脳裏に虫たちの視覚が投影された。




