14 故郷の入り口②
離れていた間もメールや電話は頻繁にやり取りしていたので、互いの近況は大体わかる。
それでも、顔を見合わせて話すのはまた格別だ。
コインパーキングに停めていた車に乗り込み、小波の町へとゆっくり走る。
蒸し暑い、雲の垂れこめた外から切り離され、車のエアコンの風が心地いい。
右側から、運転する彼の熱気のようなものをぼんやり感じる。
例の、陽にさらされた洗濯物に似たにおいが、彼が動く度にかすかにした。
碧生は退院後しばらく自宅療養をし、月が替わって六月になった頃から仕事に復帰した。
だが講師の仕事は前期いっぱい、他の人に変わってもらうことにしたそうだ。
「そっちはアルバイトに近いんで。アルバイトやからっておろそかにする気はないけど、本業がおろそかになったらなんのこっちゃわかりませんからねえ」
ちなみにその講師の仕事というのが『院生時代から他人さんに書道教えてる』と言っていた部分だと知ったのは、最近だ。
彼は、関西では大きい書道結社の会員であり、師範のひとりでもあるのだそうだ。
そちらからの伝手で、主に教職課程を取る学生向けの書道の先生を務めたり、彼の母校である津田高校の書道部で、昼食代くらいの格安賃金で特別講師を務めたりしているのだそう。
「せやからあちらの公園で所長さんに、『先生』言われるのがしっくりきませんでしてねえ。お習字の先生であって、樹木医としては駆け出しも駆け出し、今のところは結局、教授のパシリ以外のナニモンでもないし」
「でも、ちゃんと樹木医の資格、持っているじゃないですか」
るりがそう言うと、碧生は困ったように眉を寄せる。
「うーん、それはそうやねんけど。まだ『先生』って呼ばれるほどの何事もなしてへんしなァ」
もうちょっと実績積まんと『先生』って呼ばれる覚悟が出来へんなァ、などとぶつぶつ言っている彼の横顔を、るりはそっと覗く。
平凡で、これという特徴がないのが特徴の、真面目な青年。
だけどるりにとっては世界一の勇者・世界一のイケメンだ。
彼の自宅に着く。
時代がついた和洋折衷の洋館……とでもいうたたずまいの、品のある家だ。
もう少し大きいと『屋敷』かもしれないという、ゆったりとした家だった。
ここが『旧波多野邸』だと知ったのも、るりには驚きだった。
波多野氏は、碧生が中学生の時に共に『おもとの守』を務めていた老人であり、彼の直接の書道の師である銀雪先生がお亡くなりになった後、書道の師であると同時に人生の師でもあった人だ、と聞いた。
早くに妻子を亡くしていた波多野氏は天涯孤独に近い境遇だったが、明るくて飄々とした『素敵なクソジジイ』だったのだそうだ。
「恵月(波多野氏の雅号)先生みたいな素敵なクソジジイになるのが俺の人生の目標のひとつですんで、協力よろしく」
あ、でも、だからって早死にはせんといて下さいね、と結構真顔でそう言う彼が、可笑しい。
波多野氏は亡くなる直前、碧生にこの家を格安で譲った。
格安と言っても高い買い物だ、借金こそしなかったが、碧生はこの時、有り金全部をはきだしてすってんてんになったのだそうだ。
「だから俺の財産はこの家だけです。もうちょっとしたら市の有形文化財に指定されるかもしれんっちゅう古い家やけど、住み心地は悪くないですよ。内装に関しては恵月先生が若い頃から、住みやすさ重視でいじってますし」
小さな駐車場に車を入れ、二人は車外へ出る。庭の緑のお陰か、思ったよりも過ごしやすかった。
とびぬけて高い和棕櫚の木が一本、見える。
あれがナンフウの本体だろう。
だけどナンフウはまだ眠っているらしい。
寝息にも似た気配は感じられたが、声は聞こえなかった。
玄関を開けると、森の中へ踏み込んだような瑞々しい冷気……のようなものに包まれた。
わかりにくいように壁や屋根へ断熱材を入れているので、夏はしのぎやすく冬は暖かい、のだそう。
初めて来たのに不思議と懐かしい、そんな気がする家だった。
靴を脱ぎ、廊下を一歩踏み出した瞬間、笑いながら走ってゆく子供の姿が見えた。
ぼんやりとした、シルエットに近い姿だったが、男の子と女の子ではないかと思われる。
(幻視?)
久しぶりだ。
兄と別れて以来、るりの能力は再びガクンと落ちた気がする。
木霊たちの声は聞こえるが(職場の公園のシンボルツリーとはすっかり仲が良くなった)、見える方は衰えたような気がする。
左の二の腕に、あの時の兄の指の跡としか思えないあざがしばらく残っていたが、そのあざが薄れる度にるりの夢見としての力が薄れてくるような気がした。
現実の視力の方も、0.1も満足に見えない以前よりは格段に見えるようになったが、それでも月のはざかいを小波に敷いた頃のように、何でも隈なく見えるほどではない。
車の運転が出来るギリギリ、くらいの視力で落ち着いた。
見えないのも見え過ぎるのも、生き辛い。
これくらいでちょうどいいのかもしれないと、るりはこの頃、思うようになっている。
荷物を一時的にリビングに置き、まずは座って休憩しましょうと言う彼に従い、ソファに座る。
リビングの隣にキッチンがあるようで、アイスティーの入ったガラスのティーポットと、レモンの輪切り、ガムシロップ、氷を入れたグラスを載せたお盆を手に、彼は戻って来た。
「今エアコン入れたし、もうちょっとしたら涼しィなるでしょう。まあ、朝のうちにアイスティーを作っときましたんで、これでも飲んで涼んでェな」
言いながら彼は、るりの向かい側へ座る。
るりは作ってきたおみやげを出した。
彼は甘いものが好きだと聞いていたので、クッキーとマドレーヌを焼いて持ってきたのだ。
ここ最近、早めの夏休みを取る為に忙しかったのもあったし、気候が気候なのであまり凝ったものも作れない。
材料を混ぜて焼けばいいお菓子を、昨日の夜に焼いた。
お菓子は子供の頃から、祖父母が喜ぶのでちょいちょい焼いていたが、ここ最近はまったくやっていなかった。
オーブンからただよう甘くてあたたかいにおいが、何だかひどく懐かしかった。
誰かの為にお菓子を焼く日が再び来るとは、るり自身、思っていなかった。
「おおう!手作りの焼き菓子!」
碧生はるりの予想以上に喜んで、にこにこしながらマドレーヌに手を伸ばす。
一口かじり、おおお、美味い、と感動したようにうなる。
大人の男の人がここまであけっぴろげに喜んでお菓子を食べるのに、るりはちょっと驚いた。本当に彼は甘党らしい。
しばらくあれこれ雑談をしながら、お茶やお菓子を楽しんでいたが……ふっ、と静寂が訪れた。
碧生はグラスをテーブルに置き、頬を引いてるりを見た。
るりも手を下ろし、彼を見た。
「そっち、行ってもエエ?」
答える前に彼はそっと立ち、るりの隣に座った。ややためらうような目をしたが、彼はそっとるりの髪に手を伸ばし、撫ぜた。
日向の洗濯物に似た香りが不意に強まる。
無意識のうちにるりは、碧生の肩に額をもたれさせていた。
このまま眠りたくなるような、深い深いやすらぎ。軽くまぶたを閉じる。
次の瞬間、レモンティーと焼き菓子のバターの香りの息がかかり、顔を仰向けにされて唇にあたたかいものが触れた。
羽のような遠慮深い触れ方が、次第に強く、深くなる。
ゆっくり進んでゆく、恐ろしさと紙一重の所にある行為。
だがるりは抗わない。
あの陽を吸い込んだ洗濯物に似た香りは、フェロモンなんだと不意に知る。
「るりさん」
耳元でささやく声はかすれていて、なまめかしい。
「リビングの隣の部屋は寝室やねんけど……行く?」
さすがにるりは硬直した。
嫌、ではない。
今回小波に来ればこうなることくらい、るりもわかっている。
むしろ、そうなりたい、と思っていた。
だけど、それとそれが本能的に恐ろしいのは、別の話だった。
「やめとこか?」
自分の中にあるものを無理矢理押さえつけるような苦しい顔で、それでも笑んで、彼は言った。
るりは初めて、自分から動いて彼の首に腕を回した。
あのにおいが強く薫る。
「……ううん。行く」




