14 故郷の入り口①
るりは今日、久しぶりに小波へ来た。
季節は進み、もう真夏に近い。
じめじめした鬱陶しい日々が続いているが、さすがにもうすぐ梅雨明けしそうだ。
しかし、大阪の夏がこんなに蒸し暑いとは思わなかった。
駅のプラットホームに降りた途端、湿度を伴った熱い空気がむわっと押し寄せてきて、るりは一瞬、気が遠くなった。
あの後。
お茶や水、お菓子や軽食を買ってきた野崎夫妻に勧められ、るりはミネラルウォーターを飲みながら、小袋に入ったクッキーを少しつまんだ。
さっき倒れたのは、るりが低血糖を起こしているからではないかと、夫妻は心配していたのだ。
あれは夢見の一種……夢の共鳴だったが、夫妻に説明しにくい。
疲れているのもおなかが空いているのも(現金なもので、彼が無事だと確信した途端、おなかが空いてきた)事実なので、ありがたくいただく。
パウダーシュガーをまぶしたクッキーが、しみじみと美味しかった。
結木……碧生が目を覚ましたので、夫妻もほっとした様子だ。
ただ、あまり長居をするのも怪我人の負担になると、医療スタッフにやんわり諭されたので、小一時間ほどいた後、三人は野崎邸へ戻った。
碧生は結局、十日ほど入院することになりそうだった。
野崎邸へ戻る。
夫妻に勧められ、るりは客間に床をのべて横になった。
やはりかなり疲れていたのだろう、枕に頭を乗せた途端、眠ったらしい。
だからどのくらい経ってからのことなのか、正確にわからない。
不意に呼びかけられ、るりは布団の中からそっと顔を出した。
複数の気配が近くでした。しかし特に嫌な気配でもない。
「巫女姫」
大楠の声だ。しかし何故か姿が見えない。
「おやすみになっているのに、不躾をお許し下さい。しかし、我らもさすがに疲れました。こうしてこちらへ挨拶に来るのも、実はぎりぎりなのです。しばらく我々は本体の中で眠り、疲れを癒さなくては枯れてしまう可能性も出てきます」
彼の静かな声には、確かに疲れた気配が揺曳している。
「我らの主も巫女姫も、この世に踏みとどまれたのですね。まずはお喜びを申し上げます」
「ありがとうございます、皆さんのご協力のお陰です」
言いながら起き上がろうとしたるりのまぶたの上を、あたたかいものが優しく覆う。すんと鼻を抜ける、薄荷に似た香り。
再び眠くなり、知らず知らずのうちにるりはまぶたを閉じていた。
木霊たちの声が聞こえる。
「我らの主がこの世に踏みとどまれたのは、巫女姫のお陰です。貴女がいらっしゃらなければ、主である結木草仁は今、黄泉路をたどっていたでしょう。お礼を申し上げるのは我々の方です。ありがとうございました」
「ねーさん。草仁をコッチへ引き止めてくれてありがとうな、マジで感謝してる。あいつのこと、幸せにしたってくれや、頼むで。あー、でも別にこれきり死ぬ訳やないで、オレ等。また会おな!」
「お疲れのところ、失礼します。でも、今寝たら三、四か月くらいは起きられないでしょうから、強引に挨拶に来ました。本当にありがとうございました、またお会いしましょう」
ありがとう、みなさん……またお会いしましょう。
半ば以上眠りながら、るりは答えた。
爽やかな青いにおいに包まれ、るりは、夢も見ないでぐっすり眠った。
碧生の怪我に関しては、俗に言う『日にち薬』(と野崎夫妻が表現していた)なのだそうだ。
治療の基本は、安静にして回復を待つしかないのだそう。
薬にしても、痛み止めなどの対症療法や化膿止めの抗生物質の投与くらいで、これというものはないらしい。
ただ、心臓に不整脈がちょいちょい出るので、大事を取って入院させられているのだと、これは本人が苦笑混じりに言っていた。
「退院してもしばらく自宅療養しとれ、って、医者には言われました。……参りますね。講師の仕事はピンチヒッター立てて何とかしのげますけど、せっかく持ち帰ったサンプルの分析とか出来んのが、ちょっと悔しいですねえ。……まあ、命あっての物種、贅沢言うてる場合やないと言うことです」
「不整脈って……」
穏やかならぬ単語に、るりはぎょっとする。碧生は慌てたように言葉を連ねた。
「ああ、いや。実は不整脈は若い頃から、ちょいちょい出る質で。原因は不明やけど、病的なうんちゃらというより体質みたいなモンや、いうことらしいですよ。ガキの頃からちょいちょいひっかかるけど、きちんと調べたら何にも出てけえへん、そういうのんで……」
そして彼はふわっと、でもいたずらっ子のほくそ笑みにも似た雰囲気の混じった目で笑んだ。
「コレに関しては、ストレスがかからんかったら多分大丈夫です。だからるりさん。俺にあんまり心配かけやんといて下さい」
「え?は、はい。それは……もちろん」
彼が何を言いたいのかよくわからず、るりは軽く首を傾げながら答える。
「ほんなら、近いうちに結婚して、小波で一緒に暮らして下さい。離れとったら正直言うて心配やねん、他の男にさらわれんかと。あ、マズい。これってヤンデレかな?」
思わず吹き出す。
きまり悪そうに目を伏せる彼が、ちょっと可愛かった。
「わかりました。善処します」
そうるりが答えると
「……お役所かいな」
と、碧生はやや恨めしそうな上目遣いでこちらを見た。
小波の町の最寄り駅は、私鉄の各駅停車駅だ。
プラットホームを降り、改札に向かう。
改札の向こうに……彼がいた。
Tシャツの上に袖をロールアップしたデニム地のワークシャツをはおり、下は黒のジーンズという特別オシャレでもないカジュアルな普段着だった。
思えば、正装かスーツ、そうでなければ作業着かパジャマ兼用の部屋着、あるいは病院の貸し出し寝間着……という両極端な服装の彼しか知らなかった。
普通の青年が普通に着ている普段着姿なのが、逆に新鮮な気がした。
「遠路はるばるお疲れ様。暑いし、大変やったでしょう?」
そう言って笑う彼が、涙ぐみたくなるくらい愛しい。
こんな日が来るなんて、ごく最近まで考えられなかった。
(真幸くあれ、いとし子よ)
碧生と連れ立って歩き始めた時、ツクヨミノミコトの声が不意に聞こえた。
ツクヨミノミコトの声に託された、父の、母の言葉なのだろう。




