13 よもつひらさか③
雑多な音が唐突に、一気に耳へなだれ込んできた。
「みこ……神崎さん!」
巫女姫と言いかけて『神崎さん』に言い換える、野崎氏の声が上から落ちてくる。重い頭を上げ、るりは上を見上げる。
心配そうな野崎夫妻の顔があった。
「神崎さん、神崎さん大丈夫ですか?」
夫人がうろたえた声で問う。るりはうなずき、引きつっているだろうが笑みを作る。
「すみません、ちょっと立ち眩みをしてしまったようです」
夫妻は納得したような顔になり、うなずく。
「ああ、当然ですよね。それでのうてもお疲れやろうし」
「ナースステーションに話して、空いてるベッドを借りるように……」
「ああ、いえ。大丈夫です」
今にも病室から出ようとする夫人を制し、立ち上がる。
「本当に大丈夫ですから」
夫妻は軽く互いの顔を見合ったが、とりあえず動かないで様子を見ることにしたらしい。
ただ、さすがに座るよう促された。
ベットのそばにある、さっきまで野崎氏が座っていたらしい一脚しかない椅子に、半ば強引にるりは座らされた。
そして、お茶か何かでも買ってきましょう、と、夫妻は連れだって病室を出た。
るりはベッドに横たわっている結木を改めて見た。
血の気のない顔だ。頬がげっそりとそげたような気がする。涙がにじんできた。
「……結木さん。戻って来て下さい」
つぶやいた瞬間
「はあ、別に何処へも行く気はないですよ」
という、ややかすれた声が聞こえた。るりは驚いて涙をぬぐい、結木の顔をまじまじと見直した。
うっすらと目を開け、儚くほほ笑んでいる彼がそこにいた。
「言うたでしょ?命冥加のある男です、そう簡単にはくたばりませんよって」
だがそこで、彼は少し頬を引く。
「……まあ今回は。ちょっと、危なかったですね。るりさんが引き止めてくれんかったら、アッチへ転がり落ちてたでしょうから」
その言葉を聞いた途端、るりは猛然と腹が立った。
「結木さん!」
「は、はい?」
「『は、はい?』じゃありません!最初から自分の命を的にして、兄を挑発するつもりだったんでしょう?なんて危ないことするんですか。そんな、それでもし万が一のことがあったらどうするつもりだったんですか!」
結木は目をぱちぱちさせ、
「あー……まあ。その時はその時で、しゃーないかな~と……」
などともごもご言い、更にるりの怒りをあおる。
「しゃーない、で済みません!結木さんに死なれて、私がのうのうと生きていられると思っているんですか?私は、そんな、そこまで厚かましい女だと……」
言い募るうちに、またぼろぼろと泣けてきた。胸がつまってきて、結局
「馬鹿っ」
と叫んで唇をかみ、荒れ狂う胸を抑えた。
「す、すみません……」
ややあって、結木は小さく謝った。
「いいえ。ごめんなさい」
さすがに言い過ぎたとるりは反省し、軽く首を横に振って指で涙をぬぐう。
結木は小さく息をつき、
「せやけど、馬鹿ってリアルで面と向かって言われたん、初めてです。なかなかキョーレツですねえ。いやまあ、雑学として、関東の『馬鹿』は関西の『アホ』に相当するって知ってますけど、『アホ』やったらごめんごめんくらいの受け答えする感じで受け止められますけど、『馬鹿』って言われたら言葉失くしますねえ。相手が男やったら、気色ばんで胸ぐらつかみに行きたくようなインパクトです……」
と、こちらが脱力するようなのん気なことを、しみじみと言った。そして軽く咳をすると、ふと彼は真顔になった。
「こう言うたらナンですけど、こっちも『馬鹿』って言いたくなりますよ?るりさん。貴女は御剣……明生さんに、黙って殺されるつもりやったんでしょ?」
ぎくりとし、涙を呑んでるりは顔を上げる。
「るりさんが殺されるのんを、俺が黙って見てると思いますか?そうやったとしたら、大概、見くびってますよ。それこそ相手が男やったら、気色ばんで胸ぐらつかみたくなるくらい、腹が立ちました」
るりは物も言えず、硬直して結木の青い顔を見ていた。
ふっと、彼の頬がゆるんだ。
「まあ、この件については。あいこ、やないでしょうか?俺も、るりさんが知ったらメチャクチャ腹立つような取り決めを、一角のミコトとしてましたから」
そして少し恥ずかしそうに目をそらした。
「この世ならざるお方とのガチンコ勝負ってのは、どうしてもこういう、命のやり取りがつきまといます。だから、俺にとったらある程度、想定内のことやったんですけど。るりさんに黙っていろいろ勝手にやってしまったんは、自分が置き去りにされかけて、どんだけ残酷なことしたか、ちょっとはわかりました。せやけど、俺のやり方やったら御剣さんだけをあの世へ送ることが、たとえ五分五分でもありましたけど。るりさんのやり方やったら、100%、るりさんの命はないでしょう?」
「それは……」
確かにそうだ。黙るしかなかった。
「もしかしたら御剣さんと死ぬことが、るりさんの心の奥底の願いやったのかもしれん、そうやったとしたら、俺はなんちゅう余計なことをしてしもたんやろうと、ちょっと思いました。……るりさんに、それでも生きていて欲しい、そう思う気持ちは変わりませんけど。変わりませんし、生きてたらまた気持ちというのは変わってくるモンやとも思います。けど……」
結木は少しつらそうに何度か息をついたが、続けた。
「ヒトの心は、わからんものですから。何がるりさんの幸せかは、るりさんにしかわかりません」
「わ、私の幸せはっ」
るりは懸命に言葉を紡いだ。
「ゆ、結木さんと、一緒に生きることです!」
言った。
言わなければならない、と思った。
彼に、ここを誤解させたままではいけないと、ほとんど恐怖に近い必死さで思い、るりは言った。
青ざめてはいたが、結木はふわりと、あの初めて出会った時の笑みを浮かべた。
「……はい。目が覚める直前に見ていた不思議な夢で聞きました。死にたい死にたい言うてはるるりさんに癇癪起こして、生きようが死のうが知るか、っちゅうやけくそな気分で歩いとったら、後ろから追いかけて来てくれましたね?」
思わず赤面したが、アレがただの夢でないことは、るりにもわかっていた。
「追いかけてきてくれんかったら、多分死んでたと思います。……助かりました。一時の癇癪で、もうちょっとで死ぬところでした」
老衰で死ぬのが目標やのに、と彼は少しおどけたように言って、もう一度つらそうに咳き込んだ。
「結木さん、あんまりしゃべらない方が……」
「あー、じゃあ、もう一個だけ」
彼は身じろぎし、軽く後ろを振り返った。
「そこに、患者の名前が書いてありますよね?」
ベッドの頭側の壁に
『結木 碧生』
と書かれた名札があった。
「『草仁』は、ちょうどおもとの守のツカサになった頃、書道の恩師に付けてもらった雅号です。恩師自身もおもとの守やったし、当時おもとの守になってる人は大抵、書道を嗜んでましたから、お互いを雅号で呼ぶ習慣がありましてね。その流れでツカサとしての呼び名が『草仁』になったんです。愛着も誇りもある呼び名で、雅号ですけど。本名で呼ぶ人間が親以外、いなくなりましてね。ちょっと寂しいなって思ってたんです」
照れた笑みを浮かべ、彼はるりを見た。
「だからるりさん。俺を……碧生、の方の名ァで、呼んでくれませんか?」
るりはそこで不意に、彼が自分を『るりさん』と呼んでいること、彼の一人称が他人行儀な『ボク』からナンフウに対する時のように『俺』になっていること、に気付いた。
「はい。……あおい、さん」
彼は照れくさそうに、だけど嬉しそうに、ふわりと笑んだ。
紺碧の空をひるまず見つめ、生きる。
彼に相応しい、素敵な真名だと思いながら。




