12 対峙④
結木は明生を抱きしめるような感じで硬直していた。
ふっと彼の肩がゆれた。ごぶりという鈍い音と共に、鮮やかな赤が口からあふれ出た。明生の肩や顔に、吐き出した血がかかる。
「……おとうさん」
無意識のうちにるりはつぶやく。今の結木の姿は、あの日の父の姿にあまりにも似ていた。
(そんな……)
彼の命が紺碧の空の更に上、無音の暗黒……死の世界へ吸い込まれてしまう、のが見える。引き止める術はるりにない。
己れの無力さに眩暈がした。
結木はあえぐように鮮血に染まった口を開け閉めし、何故か、己れの心臓に剣を埋めた少年を抱きしめるようにして押さえ込んでいる。
「……いっかく」
げふ、とひとかたまり血を吐き、彼は、渾身の力を込めて言葉をしぼり出す。
「一角のミコト!来てくれ!」
あざやか。
あの時の状況を思い出すと、るりにはその言葉しか出てこない。
結木の身体が大きくのけ反る。
同時に、白い着物が淡く発光しながら膨れ上がり……背に、鮮血の色をした縄で戒められた明生を乗せた、馬ほどもある白い大鹿になった。
大鹿は頭を上げる。
大樹の枝を思わせる重そうな角は、左側が半分ばかり折れていた。
結木にとってのオモトノミコト……一角のミコト、だ。
神である大鹿は、静かに目を開いた。
真白の長いまつ毛に覆われた瞳は、氷河の割れ目を思わせる冴え切った薄青だった。
「病んだ神鏡の剣・神崎明生」
年齢も性別も不明な不思議な声が、背に乗せられて赤い縄で戒められて硬直している少年へ話しかけた。
「逃げ続けるのは終わりだ。己れと向き合い、己れの罪を覚って受け入れよ」
「い……いやだー!」
追い詰められた悲鳴が辺りに響く。同時に、るりの左の二の腕を、何者かに強く握られる感触がした。骨まで握りつぶされそうな痛みに、るりは思わず顔をしかめる。
一角のミコトがるりを一瞥した。
目には見えない何かがるりの二の腕を優しく押さえ、必死に絡みつこうとしている指を一本一本、たしなめるようにほどいてゆく。
「るり!るり!るり!」
助けを求めるように名を呼ぶ、かつて兄だった憐れな少年をるりは見る。
そして意を決し、彼女は言った。万感を込め。
「さようなら。大好きだったおにいちゃん」
断ち切られたように明生は沈黙した。
「今までありがとう。だけど……本当言うと、すっごく迷惑だったの。どうしてあのまま大好きなおにいちゃんでいてくれなかったのって……私はずっと、思っていたんだよ」
「……では参ろう、神崎明生。お前が行くべき……逝くべきところへ」
素っ気ない口調で一角のミコトは言う。
角を振り立てるようにして駆け、瞬くうちにミコトは野崎邸の門を抜けて行き……見えなくなった。
「ぼんやりしている暇はないぞ、神鏡」
聞き覚えのある冷ややかな声に、るりは鋭く振り返る。
白ずくめの巫女装束の、アルビノの美少女。ツクヨミノミコトだ。
「まずは月のはざかいを解き、うつつの結木草仁を介抱しろ。放っておけばお前の兄共々、暗黒に沈む」
ひゅっと息を引き込むるりへ、ツクヨミノミコトはかすかに口角を上げる。
「あの男はしぶとい。よほどでなければこの世へ舞い戻ってくるだろう。だが……」
ミコトは頬を引く。
「油断は禁物だ。お前が本当にあの男と共に生きたいのなら……闘え」
つい、と、ツクヨミノミコトの白い指先がるりの眉間を軽く押す。
「真幸くあれ、いとし子よ……」
かすかなつぶやき。るりは目を見張る。
(お父さん!お母さん!)
呼びかけは声にならず、るりの視界は暗転した。
水の音に、るりはハッとする。
見回し、少し先にうずくまっている黒っぽい塊に気付く。
塊はヒューヒューと苦しそうな息をしている。ぬかるむ泉の岸にうずくまっている結木だ。
くぐもった鈍い音と共に、泉に赤い液体がしたたる。
「結木さん!」
悲鳴のような声を上げ、るりは、夫人に借りた足袋や草履が汚れるのもかまわずに結木のそばへ行き、肩を抱き起した。
はざかいの中にいた時のように、結木の口許は血で汚れていた。
「ああ……るり、さん」
土気色の顔色だったが、結木は心底ほっとしたように笑む。
「連れていかれんで……済んだんですね。良かった、です……」
ふうっと大きく息を吐くと、彼は目を閉じた。突然るりの両腕に、すさまじい重みがかかった。
意識を手放したらしい。
狂ったようにるりが結木の名を呼んでいると、野崎夫妻が慌てた様子で泉の方へ来てくれた。
結木はそのまま、救急車で市の総合医療センターへと運ばれた。




