12 対峙②
「おにいちゃん」
るりの呼びかけに、明生はのろのろと向く。
元から青白かった顔色が今は唇まで血の気を失い、紙のように白かった。
「おにいちゃん、ごめんね。おにいちゃんは今まで、一生懸命に私を守ってくれていたのに。私は……忘れてた。私がお願いして、そばにいてって言ったのに、お願いしたことすら忘れてた。何もかも忘れて果てて……おにいちゃんのこと、邪魔にばっかり思っていたよね?」
邪魔に思って遠ざけず、もっと早くから、ちゃんと兄と向き合っていたら。
たとえ目を閉ざしていたとしても、もう少しはわかり合えたかもしれない。
少なくとも榊と有村は救えたかもしれない、とるりは思う。
鉄道自殺をさせられた塚本少年、るりの知らない山根とか平井とかいう人は、さすがに無理だったかもしれない。
が、それでもるりが早くから兄と向き合っていれば、救える命はあったかもしれないではないか。
強い悔いが胸を食む。
一連の惨劇は、事態がここまで進まなければ兄と向き合おうとしなかった、自分の罪でもあるのだ。るりはそのことを、今ようやく、明確に覚った。
「私がもっと早く、本当の本気になっていたら。おにいちゃんがこんなに多く、罪を犯すこともなかったよね?ごめんなさい。謝って済むことじゃないけど、私はおにいちゃんに、まずは謝らないといけないと思うの。ごめんなさい、本当にごめんなさい」
「る、り……」
兄はるりに視線を当てたまま、茫然と名を呼んだ。
八歳の少女と二十六歳の女性が、彼の中でようやく重なったらしい。
「るり、るり……」
夢遊病患者のような足取りで兄は、るりのそばへ寄る。
手を伸ばし、るりの肩をつかもうとした。
途端に彼は、電撃を受けたかのように身をのけ反らせ、尻もちをついた。
「おにいちゃんごめん。私はおにいちゃんに『疾く来よ』とは言ったけど。触れていい、とは許していないの」
愕然として見上げる彼の瞳は、割れて光を失ったビー玉のようだった。
「おにいちゃん。今まで本当にありがとう。それから、本当にごめんなさい」
るりは深く腰を折り、頭を下げた。かなり長く下げていたが、意を決してゆっくりと頭を上げた。
「おにいちゃん。今までありがとう。でも、もうそばにいなくていい」
言の葉に強い意志の力を込める。彼の瞳にもうひとつ、大きくひびが入る。彼の絶望を思うとるりの胸も強く絞めつけられたが、言わなくてはならない。
憎まれても恨まれても、言わなくてはならない。
「もうそばにいなくていいんだよ、おにいちゃん。もう、私から自由になって。御剣としての務めは、もう終わってくれていいんだよ」
明生の顔には表情がなかった。
怒りも悲しみも口惜しさも、何も。
白い顔には二つの黒い目が、穿たれた穴のように光もなく並んでいた。
どのくらいそうしていたのかわからない。
不意に明生の肩がゆれた。
「なんだよ、それ」
気の抜けたようなつぶやきだった。
「なんだよ、それ。そんなのありかよ。もういいからどっか行けってか?」
はは、と、乾いた笑い声が虚しく響く。
「どこへ行けって言うんだよ?今まで……オレは今まで、お前の為に一生懸命……」
ふらりと立ち上がる彼の姿には、風に吹かれて消えそうなあやうさがある。
「さんざん、守らせて……さんざん、使うだけ使って……もういいからどっか行けって?なんだよそれ。そんなのありかよ!」
儚い立ち姿が、ふいに剣呑な暗い気配をまとう。
「そんなのありかよ!」
「明生さん!」
鮮烈な声が明生を制する。結木だ。
「落ち着いて下さい、明生さん!」
「うるせえ!」
叩きつけるように明生は、結木の制止を退ける。
「あんたに何がわかる!他人がごちゃごちゃ口をはさむな!」
(……ああ)
やはり、と思う。
兄はるりを許さない。
逆の立場なら、るりだって許せないだろう。
ようやくまともに向き合えたと思ったら、それがさよならを言う為だったなんて、ひどいにもほどがある。
(最悪の事態の、覚悟はしていたけれど)
こちらからの絶縁宣言で、契りは結び目がほころんだ。
しかしあちらが受け入れなければ、完全に縁は切れない。
神崎明生は未だ神鏡の剣だ。
剣は一度だけ、鏡に対して牙をむくことが許されている。
自身の霊力のすべてで鏡を破壊する『破鏡』。
離婚を意味するこの技で、狂ったあるいは不実な鏡を壊す、剣にとって唯一の鏡への対抗手段、霊的な無理心中の手段だ。
(……結木さん。幸せになって下さい)
おひさまが似合うあなたに相応しい、優しいそよ風のような女性と。
息苦しさに胸が痛んだが、彼が死んではそれこそるりは生きてはゆけない。
自分の剣が犯した罪は、自分の命で贖おう。
とても足りないが、少なくともこれ以上の被害は食い止められる、から……。
「『破鏡』!」
叫びと共に明生の手に、父を、母を屠った禍々しい刃が握られる。
契りを結ぶ前だったあの頃も、刃は凶悪な霊力を放っていた。
が、己れの鏡を屠るつもりの破鏡の刃は凶悪であるだけでなく、剣自身の怒りや哀しみを極限まで吸い込み、見る者の逃げる気力や対抗したい意思すら吸い込むようだ。
るりはがくりと膝をついていた。
自分が剣に殺されれば、剣は満足して死んでゆく。
意図していた訳でないとはいえ、るりは剣である明生を使ってきた。
そんな自分が出来る、最後の罪滅ぼしがこれかもしれない。
るりはうなだれ、目を閉じた。




