11 月のはざかい⑩
野崎邸・正門前。
月の御剣・神崎明生は頬をゆるめる。
あの門の向こうに、会うことすらままならなかった妹が待っている。
思わず彼は、小走りになってそちらへ進む。
が、その刹那。
ピイン、とでもいう金属音めいた音がして、全身がこわばった。
【な、に?】
ぞわりと背が冷える。
恐ろしい、と一瞬、本気で思ってしまった。
父と対峙し、青銅の剣を背に刺された時のことを、明生はふと思い出す。
「……たかあまはらに かむづまります」
どこからともなく、朗々たる声が響いてくる。
気付くと、真白の狩衣に真白の袴、黒の沓に烏帽子、手には御幣という神職の姿をした壮年の男が、すぐ目の前に立っていた。
一瞬、『神』と呼ばれる存在かと思うほどの霊力を感じさせる……木霊、だった。
(くそ。この町にはなんで、こんな化け物じみた木霊がうじゃうじゃといるんだよ!)
奥歯をギリギリとかみしめ、明生は思う。
神職姿の男は無表情だったが、放たれる殺気は、あの若い『脳筋木霊』の比ではなかった。
冷たい汗が全身に伝う。
本気で向かわなければやられるかもしれない相手だ。ここまでの危機感は、父と対峙して以来だろう。
「……もろとものまがごと つみけがれを はらいたまへきよめたまへと もうすことのよしを あまつかみ くにつかみ やをよろづのかみたち ともにきこしめせと かしこみかしこみ まをす……」
『禊祓詞』だ。息苦しくなってきた。
神職姿の男の目に、ふと表情が現れた。
かすかに痛ましそうな陰りがかすめ、御剣はかっとした。
「掛まくも畏き三貴子・夜食す国を統治す月夜見命の御末裔にして 畏き月の御剣たる……」
神職姿の男は大きく息をつく。
「その本性明き者、明き方へと生命を伸ばす者・神崎明生ノ命!」
裂帛の気を込めた大音声。
すさまじい、嵐にも似た言霊の圧。
思わずよろめく。まとっていたあらゆる鎧が剥ぎ飛ばされるような感触。
(眷属、たちが……)
糸でかろうじてつないでいた柴田を含め、明生が手折ってきた命が、その命の怨嗟の力が、きれいに剥ぎ取られてゆく。
(……クソジジイ!)
明生を浄化させる、のではない。
逆に、明生を神として祀り上げることで、明生を丸裸にしたのだ!
膝をつき、肩で息をしている少年。
神職姿の男……大楠は、静かに彼へ近付く。
「神崎明生さん」
呼びかけに、少年は顔を上げてにらむ。
「クソジジイが」
吐き捨てるような口調で彼は罵る。
「オレを神として『祀り上げる』ことで、結果として無力化を図るって訳かよ!」
叫んだ自らの声が声変わりしたばかりの少年の声なのに、御剣……いや。
神崎明生は、瞬間的にうろたえる。
しかしうろたえた自分自身に腹が立ち、明生は、足に力を込めて立ち上がると神職姿の男をにらみつけた。
「たとえ剥き出しになって力をそがれた状態だとしても。オレが、神鏡の剣なのは変わらない!あんたなら今のオレを、無理矢理浄化させられるかもしれないけどだな、そうしたら神鏡も一蓮托生だ!」
「おっしゃる通りですね、明生さん」
憎たらしいほど落ち着き払って、大楠は答えた。そう言われるであろうことを、彼はある程度予想していたのだろう。
「あなたを浄化するつもりはありませんよ、それは神鏡の巫女姫の意思にも反します。あの方はあなたと向き合い、話したいと思っていらっしゃるのですから」
大楠は道を譲るように身を引いた。
野崎邸の正門が、軋みながら大きく開け放たれた。
「どうぞ。野崎の正門は、大いなるものが通る為の道です。お通り下さい、月の御剣・神崎明生ノ命。……妹さんが、あなたをお待ちです」
妹、の言葉に明生の心は囚われた。
そうだ。
有象無象はどうでもいい。
妹……『いもうと』であり『いも』でもある神鏡の巫女姫以外、そもそも明生には興味がないのだから。
「るり……」
愛しいものの名をつぶやき、明生はふらりと一歩、足を踏み出した。
「来ますね、彼が。出迎えましょう」
水面を見つめていた結木が言った。
静かにきびすを返す彼の後姿が一瞬、夢の中でるりに背を向けた結木の後姿と重なり、息が止まりそうになった。
(死へ、向かう。彼は、死へ向かっている……)
あの後姿はるりへ背に向けたのではない。
実は、生きることに背を向けた姿だったのだ、と不意に気付く。
(絶対行かせない。彼を死なせない!)
思いながらきつく握ったてのひらへ、爪が深く埋まる。
痛みが思いを強くする。るりは更に手をきつく握りしめ、無言で結木の後ろを歩いた。
やがて鎮守の森に似た木立ちを抜け、正門の前までやって来た。
白っぽいパジャマ姿の、青白い病んだ顔をした少年が、ふらふらと敷地へ入ってきた。
結木は立ち止まり、背を伸ばして言った。
「小波へようこそ、神崎明生さん」




