11 月のはざかい⑧
黒い靄は先を急ぐ。
『疾く来よ』という鏡の命が先を急がせる。
目指すは小波の心臓部である野崎邸。
そちらへ向かい、ただ進む。
「おい。待てや」
横柄な口調と共に行く手を阻む者が現れた。
ひょろりと背の高い、青年の姿をした木霊だ。
焦げ茶のカモフラのベストに焦げ茶のカーゴパンツ。
額に巻いた、ベストと共布らしいバンダナ。
木霊のくせにかもしだす気配がまったく柔らかくない。
隙の無いたたずまいは、抜き身のナイフを思わせる剣呑さだ。
月の御剣・神崎明生は舌打ちした。
何か出てくるとは思っていたが、思っていた以上の武闘派が出てきた。
(……木霊のくせに化け物じみた殺気を放ちやがって)
しかし『万難』と言ったのだ、あの愛しくも憎らしい妹は。
その『難』がさっきのような、へなへなした笛吹き小僧だけであるはずがない。明生は上目遣いで木霊をにらみつけた。
【どけ。我々はこの先に用がある】
木霊の青年は鼻を鳴らす。
「へえわかりました、言うてどくくらいやったら、わざわざ出てけえへんし声もかけへんワ。わかってるやろ、変態ストーカー兄ちゃんよお」
【変態?変態だと?】
声を荒げるのは最古参の眷属である柴田。
「おう。変態に変態ゆーて、どこが悪いねん」
挑発する木霊の言葉に、柴田は簡単に逆上する。
【僕は変態なんかじゃないぞ!美しいものを愛でて崇拝する者、限られた時間の中の刹那の少女の美を貴ぶ者だ!この世に舞い降りた幼い天使たちを全力で守る、その為に僕は生まれたんだと信じている!僕は天使たちの守護者だ、その辺に掃いて捨てるほどいる、天使を汚す妄想に囚われた汚らわしいロリコン野郎と一緒にするな!】
【よせ柴田、落ち着け】
「どエラい御託、並べよるなぁ」
御剣と木霊がほぼ同時にそう言った。
「ナニが天使たちのガーディアンじゃ、気色悪いのう。そんなことマジで言われたら、肝心の天使の皆さんがドン引きするワ。蜘蛛の子散らすみたいに逃げ出すか、気色悪いからどっか行けおっさん、っちゅうに決まってるわい。ホンマ、救いようのないアホやな、あんた」
あきれたようにそう言う木霊に、柴田はますます逆上する。
【馬鹿にするな馬鹿にするな馬鹿にするな!木霊のくせに何がわかる!】
「まあ確かに木霊やけどやな、気色悪いかどうかくらいの判断はつくで」
【柴田!】
月の御剣は焦れたように最古参の眷属の名を呼ぶ。
しかし柴田は制する主の声を聞いていない。この無礼で偉そうな若者が、無性に腹が立って仕方がなかった。
ひょろりとした高い背も、エキゾチックな綺麗な顔であることも、そのくせ引き締まった筋肉に覆われたしなやかな身体であることも。
柴田の、ごく若い頃から抱えているコンプレックスのあれこれを刺激した。
右手をひとふり。
長く伸びた黒い爪が、木霊の整った男らしい顔の肉をえぐる!
「いきなり顔面攻撃かい。まあ、オレのツレもそのせいで怪我しよったからな」
静かな声。
柴田は呆気に取られ、自分の右手を見た。
指から先が綺麗に消えている。
憎たらしい木霊の若者は、茫然としている柴田へニヤリと笑う。
「あんたの武器はいただいたで」
見ると、彼の長くて綺麗な指に、黒い爪が装着されていた。
「あんたの霊力の残滓とは、前にやりおうたことがあるねん、ロリコン柴田さんよう。すでに制圧してるから、残念やけどあんたの爪はオレの支配下にあるねんで」
勝ち誇った嗤いに、柴田の中で何かが切れた。
獣じみた咆哮を上げ、柴田は、主である剣を引きずるようにして木霊へ飛びかかってゆく。
【しばたー!やめろー!】
しかし、たがの外れた柴田の制御は、中立的な立場にあった眷属を二人も失くした明生には難しかった。ギリギリと歯噛みしながら明生は、急いで霊力を練って黒い糸玉を造り上げる。
意味のなさない叫びをあげている柴田の口へ、たったいま練り上げた糸玉を押し込み、彼は糸の端を自らの左手に巻き付けた。
【糸以外の縁を切る!】
黒光りする刃を、明生は宣言して振りかざす。たたらを踏むようによろめいたが、両者は互いからある程度自由になった。
【勝手にしろ、馬鹿柴田!好きなだけその脳筋木霊と遊んでろ!】
呪うような口調でそう叫ぶと、明生は先へ進んだ。
口から細い糸を垂らした間抜けな姿で、柴田は主を見送った。
「よう。ご主人様、行ってしもたで。ごめんなさい、言うて、犬ころみたいについていかんでもエエのんか?」
なぶるようにそう言う木霊の若者の言葉に、柴田は一瞬、逆上しかけた。が、この若者が知らない切り札を不意に思い出し、可笑しくなってきた。
くすくすと笑い始めた柴田へ、木霊の若者は怪訝そうな目を向ける。
【僕の武器が爪だけだと思ってるのかい、木霊のボクちゃん。おめでたいねえ。……塚本。山根。平井。僕が食らった不埒な男の子たち】
柴田の周りに、不意に濃い血のにおいが立ち込めた。
【久しぶりの食事の時間だよ。木霊の彼じゃ、前菜のサラダにしかならないだろうけど……】
にたりと笑む柴田の顔が、不意にどろりと崩れた。
【さっさとたいらげて、我らが主を追いかけようよ。メインディッシュはオナミのクサのツカサ……食いでがありそうじゃないか、楽しみだねえ】
バラバラになった複数の腕や脚、無残につぶれ、転がる幾つかの胴体と首。
散らばった身体のパーツがゆるく集まり、ゆらゆらと立ち上がる。
血まみれで顔もわからなくなっている彼らは一見したところ、年齢もバラバラな男たちだった。
【僕の天使に手を出すような、不潔で不埒な男は全員、僕が制裁を下してきた。守護者の務めを邪魔する者も、おんなじ目に合うんだよ、木霊のボクちゃん。……千切りのコールスローサラダにしてあげようね、イケメンくん】
「けっ、ほざけ」
木霊の若者……ナンフウは吐き捨てる。
「オレは虫とおんなじくらい、スプラッタはキライなんじゃ。気色悪いからとっとと浄化させたる。かかってこいや!」
ざわりと彼らは蠢く。血のにおいが強烈に濃くなった。
男たちは歯をむき出して、一斉にナンフウへ飛びかかっていった。




