11 月のはざかい⑦
と、世界が揺れたような衝撃がふいに来た。
「来ましたね」
吐き気をこらえるように眉を寄せ、結木は言った。身体の中へ異物が入り込んだような気持ちの悪さを感じているのだろう、わからなくない。
月のはざかいは今、小波を覆っている。
小波は結木そのものだ。
るりはもう一度、泉に指を沈める。
「まずは小波の端、津田高校のメタセコイヤ……遥くんの前を、彼らに通ってもらいましょう」
泉の水面に津田高校の中庭が映る。
メタセコイヤの木霊・遥は今、緊張しながら空を見上げている。
「……来た!」
肌に有機溶剤入りの塗料でもかけられたような嫌な感じ。
じくじくと肌の表面を溶かし、容赦なく内側までしみ入ってくるような感じ。
異物……月の御剣が、来た。
遥は緊張しすぎた心と身体をほぐすように、ひとつ、大きく息をついた。
そして背を伸ばし、愛用のフルートをかまえる。
心を込め、いつもは秋に奏でるメタセコイヤの『子守唄』を、丁寧に彼は奏で始めた。
皆にささやきかけるような、最初の長音。
徐々に高まり、ゆるやかに下るメロディー。
明るさの中にある寂しさ、寂しさの中に秘められた来る季節への期待。
ただ彼は、無心に奏でる。
空に輝くのは大きな満月。
神鏡の巫女姫は見守ってくれている、遥たちの主・クサのツカサと共に。
いつしか彼は、音に自分の思いを乗せること以外、何も考えなくなっていた。
眠りは来る季節を待つ為のもの。
眠りは決して、虚無ではない、と……。
もやもやとした黒いもの……霧とか靄とでも表現するしかない何かが、蠢きながら遥の前を行き過ぎようとした。
くり返される柔らかなメロディーに、もやもやした黒いものは戸惑ったように進行を止める。
【万難を排して……なるほど。『心惹かれる』も難、か】
小賢しい、と、吐き捨てるようにつぶやき、剣たる神崎明生は進もうとした。
しかし、背中を縫い留められたかのように前へ進めない。
【榊!有村!】
明生が最後に屠った男たちの名を呼ぶ。
【かまうな、敵の罠だ】
榊、有村と呼ばれた者は、しかし、主たる剣の言葉に反応しなかった。
【……綺麗な音色だ】
紺のブレザーにスラックス、薄青のシャツに臙脂と紺と白の斜めストライプのネクタイという制服姿の少年が、茫然とつぶやく。
【ああ……心が安らぐ】
チョークで汚れた白衣に銀縁メガネの青年が答える。
二人とも胸や腹に、無残な赤黒い染みがあった。
【榊!有村!】
焦れたように剣は二人の名を呼んだ。びくりと身を震わせ、彼らは、いつの間にか従うことになっていた主を改めて見た。
【ぐずぐずするな!行くぞ!】
二人は顔を見合わし、互いの姿を見……何かを察するとうなずき合う。
【行かない。行く必要がない】
白衣の青年が覚めた声で言う。
【榊!主に逆らえると思っているのか?】
いきり立つ剣へ、榊と呼ばれた青年は哀しそうに首を振る。
【我々があなた……君に従っていたのは。行くべきところがわからなかったからだ。だけどこの音色を奏でている方は、それを教えてくれる】
【月の御剣。そもそもお前なんか主じゃない】
ブレザーの少年が吐き捨てるように言う。
【俺と榊先生が、結果として殺し合うように仕向けたのはお前だろ。要するに俺たちを殺したのはお前じゃないか!】
【よせ有村。怒りは御剣に利用されるだけだ】
白衣の青年が少し疲れたような口調で、唇をかんで剣をにらむ有村少年の肩を押さえ、諭した。
【怒りのせいで……つけこまれた。今になったらそれがわかるよ】
「皆さん!」
いつの間にか演奏を止めていた遥が、月の御剣と眷属たちに声をかけた。
険しい目でこちらを見る彼らへ、どう言ったものかと彼はやや逡巡していたが、意を決したか真っ直ぐ視線を受け止め、言葉を続けた。
「あの、僕の演奏を聴いて下さって、ありがとうございます」
彼は軽く頭を下げ、再びフルートへ息を吹き込んだ。柔らかな長音に、彼らの荒れた気が目に見えて和らいでいった。
「……僕たち落葉樹は秋に葉を手放し、眠ります」
フルートを唇から離し、遥は語る。
「次の春まで眠って力を蓄える為なんですけど……それでも葉を手放すのは怖いんですよ。毎年のことなんですけどね」
遥は軽く目を伏せた。
「葉っぱたちは確かに僕の一部なんですけど、それぞれが別々の命でもあります。みんな、枝から離れなきゃならないってわかっているけど、やっぱり怖いんですよ、枝から離れたら死んでしまいますから」
遥はフルートを持ち直す。
「僕も……春から夏を一緒に過ごした葉っぱたちを手放すのは辛いんです。死ぬとわかってても手放さなきゃならないのは、何年経っても何十年経っても、やっぱり哀しいし、寂しいですからね」
すっと背を伸ばし、彼は再びフルートをかまえた。
「だから僕たち落葉樹は、秋になるとこうして子守唄を奏でるんです。葉っぱたちと……葉っぱを手放して冬の眠りにつかなきゃならない、自分自身の為に。眠るのは怖くない、新しい、次の春の目覚めの為のものだからって」
彼は静かに、飴色に鈍く輝く横笛へ息を吹き込んだ。
子守歌……クラシックの小品を思わせるメロディーが、木管を震わせて辺りに柔らかく響き渡る。
榊と有村はゆっくり崩れるように膝を折り、泣き始めた。
【勝手にしろ!】
月の御剣は叫ぶ。
【お前たちは我が眷属にあらず!どこへなりとも失せろ!】
手にある黒光りする刃を一閃させると、榊と有村は糸を切られたあやつり人形のようにその場に倒れ込んだ。
【先へ進む!】
苛立ったように言うと、黒い靄は消えた。
「大丈夫ですか?」
遥はフルートを自らの本体へしまい込み、剣と契りを切られた霊たちのそばへあわてて駆け寄る。
苦しそうに咳き込み、榊と呼ばれていた青年は首を振る。
「駄目でしょう、目がかすむ」
「嫌だ、なんで死ななきゃならないんだよ……」
涙声でそう言う有村少年を、榊は腕を伸ばして軽くたたく。
「もう死んでいるだよ、我々は。行こう、有村。……木霊さん」
榊は遥を見上げた。
「メタセコイヤさん。眠るのは怖くない、のですよね?」
遥はうなずくしか出来なかった。
「送ってくれますか?さっきの曲で」
「もちろんです」
遥はフルートをもう一度取り出し、吹き口に唇を寄せた。
明るさの中にある寂しさ。寂しさの中に秘められた来る季節の希望。
有村少年が静かに目を閉じ、メロディーに導かれて細かい光の粒になると、虚空へ消えた。
「……メタセコイヤさん」
身体が半分以上光の粒になった榊が遥へほほ笑む。
「神崎るりさんの知り合いなのでしょう?」
驚いて目を見張り、遥はうなずく。
眷属たちは、ただ剣に連れられているだけだろうと遥は思っていた。
特に、『子守歌』に反応するような剣と結びつきの弱い者は。
「彼女へ伝えて下さい。あまり自分を責めないで……って」
言葉と共に、榊は虚空へ消えた。
「榊先生……有村君」
るりは茫然とつぶやいた。
「先生と同級生、やったんですか?あの人たち」
問う結木へうなずき、るりは言う。
「担任の先生と……クラス委員長だった男の子です」
『呪われ少女』なんてバカバカしい、要するにイジメじゃんと、恋愛的な意味でなくるりをかばい、憤ってくれた少年。
噂におびえてよそよそしい態度を取る教師が多い中、他の生徒とまったく態度を変えずに接してくれた唯一の先生。
素っ気なさの中にあった優しさに惹かれ、るりは榊に淡い恋心を抱いた。
そして……アレに目を付けられたのだ。
「ごめんなさい、二人共」
結木はポンポンと、軽くるりの肩をたたいた。
「彼らは御剣から自由になりました。それだけは確かです。あの先生は、自分を責めるなっておっしゃっていましたよ。……いい先生ですね」
るりは熱くなる目頭を押さえ、何度もうなずいた。
そしてハッとしたようにもう一度しゃがみ込み、泉に手をひたした。
「……しっかりしなくちゃ。アレはまもなく『旧波多野邸』……ナンフウさんの前を、通ります」




