11 月のはざかい⑥
暗黒。
馴染みの暗黒だ。
つまりここは『死』の世界。
何もない、絶対の静寂。
(でも私は生きている)
「……夜は暗黒の闇にあらず」
(でも私は生きている)
「内にやわらかな光を抱く、瑠璃色こそが夜の闇。安らぎを生む優しき闇が我が本性なり」
(夜は死ではない)
「我が真名は神崎るり。瑠璃色の夜の闇なり!」
(夜は包む。すべてはまどろみの夢の中)
「オナミのクサのツカサ、結木草仁を瑠璃色の夜の闇……月のはざかいの中へ」
(結木さん!)
心の中で結木を強く呼んだ。その瞬間、真白の大地に立ち、何かを探すように上を見つめている結木……いや。
オナミのクサのツカサと、目が合った。
青白く燃え立つ炎が化身した青年が、こちらを眩しそうに見上げている。
思わず手を伸ばす。青年も手を伸ばす。
出会った最初の日と同じように、ふわりと彼は笑った。
指先が触れる。
ハッと気付くと、るりと結木はおもとの泉のほとりにいた。
「戻って来た……?いや」
結木は自分を見回し、かぶりを振った。
彼は何故か、青みがかった白で仕立てられた羽織袴を身に着けていた。
「どうやら違うようですね、神崎さん。なんでかようわかりませんけど、着物が変わってますし……神崎さんの方も」
言われてるりは、自分のいでたちを確認する。
朱鷺色の一ツ紋の着物がいつの間にか、着物も袴も朱鷺色の巫女装束に変わっていた。
ツクヨミノミコトのいでたちにどこか似ている。
「月のはざかいの中ですね」
つぶやくように言うと、
「その通りです」
と声がした。
泉へ向かってゆっくり歩いてくる三人。
まず目につくのは、真白でそろえた神職の装いの大楠。烏帽子と沓は黒で、御幣を手にしている。
その後ろにいるのはいつも通りの服装にカモフラ調のバンダナを額に巻いたナンフウ、津田高校の標準服姿で木製のフルートを手にした遥だ。
「大楠先生……ナンフウ……遥くん」
茫然と彼らの名を呼ぶ結木に、ああそうだ、結木は現実で彼らの姿が見えないんだった、と思い至る。
「よう」
ちょっと照れくさそうに、ナンフウが結木へ声をかけた。
「助太刀に来たで。……なんじゃお前、ボケっとした顔しおって。しゃきっとせえや」
どやしつけるようにそう言われ、結木は我に返る。
「あ……ああ。そう、そうやな」
ナンフウはるりへ視線を向けた。
「ほんなら後は手筈通り、やな、巫女姫」
るりはうなずく。
「ええ。アレをここへ呼び寄せます。その際、私の指示通りの道を通って野崎邸まで来るように、と命じます。……皆さん、よろしくお願いします」
頭を下げるるりへ
「任せんかい」
「全力を尽くします」
と、木霊たちが力強く答えてくれた。
「巫女姫」
神職姿の大楠が、真顔でるりを呼ぶ。
「巫女姫の兄上と、良いにせよ悪いにせよここが今生の別れになるでしょう。何卒悔いを残されませんように」
わかっていた筈なのに、大楠の言葉を聞いた途端、ふっと胸がふさいだ。が、るりは背筋を伸ばし、笑みを作る。
「はい。お気遣いありがとうございます」
位置に着こう、と、大楠が静かに言った。
うなずき合い、木霊たちの姿はかき消えた。
るりは泉に近付き、腰を落とす。
澄んだ水を湛えた小さな泉は、今も底から静かに水が湧き出しているらしい。柔らかな波紋が中央から岸へ向かって広がっている。
(この泉は小波という土地に張り巡らされた血管へ、命の源になる『水』を送り出している心臓のようなもの)
霊力らしい霊力は消えているものの、『水』としての力は残っている。
小波を映す鏡にもなる。
るりはそっと手を伸ばし、泉に触れた。
「月の御剣・神崎明生。その本性明き者、明き方へと生命を伸ばす者。当代の月の鏡である神鏡・神崎るりが命じる」
てのひらが異常に熱いが、泉の水の冷たさがそれを和らげてくれる。
「月のはざかいを超え、私の導く道を通り、私のそばまで疾く来よ。万難を乗り越え、疾く来よ。……顔を見て、話をしようよ、おにいちゃん」
泉の周りの木々が不意にざわめく。
【それがお前の望みなら】
風はあざ笑うように木の葉をゆさぶる。
【否やはないな、オレはお前の下僕だ。話すことなど何もないが、それでも一度はきちんとお前に会いたい、声のやり取りだけではなく。……疾く参ろう、我が主にして裏切り者の……神鏡の巫女姫】
どす黒い怒りのこもった声に、るりは一瞬、気が遠くなった。
兄の怒りはもっともだ。
兄をこの世に引き留めたのは自分なのに、彼の存在をずっとないがしろにしてきた。
知らない、知りたくないと願った幼い日の代償は、とんでもなく高くついてしまった。
とても支払いきれない、あまりにも大きな代償だ。
せめて、これ以上被害は拡大させない。
大きく息をつきながら、るりは泉から手を出す。立ち上がろうとして思わずよろめいた。
腕をつかみ、支えてくれた人を見上げる。
青いまでに白い、片角の大鹿の姿が一瞬見えた。
「彼の怒りに呑まれたら負けですよ」
青い霊力の火が、静かに彼の目の中に灯っている。
「彼の怒りは怒りとして……それでもやったらアカンことは、やっぱりやったらアカンのです。そこを譲ったら、永遠に彼を甘やかすことになりますよ、神崎さん」
るりはこわばった頬で笑みを作り、うなずいた。
「ええ。その通りですね」




