10 『生と死の狭間』で起こったこと③
そして次にハッと我に返った時、るりは再び、真白の大地に独りで立ち、紺碧の空を見上げていた。
辺りを見回し、ふらふらと歩き始める。
特に意味も当てもない。じっと立っているのが落ち着かなかっただけだ。
自分が今、八歳なのか二十六歳なのか、よくわからない。
心細くてじっとしていられないこの感じは、八歳のあの時そうだったのは確かだが、二十六歳の自分であっても変わらずそうなのではないかと思う。
(私……)
茫然としながら思う。
(すべての禍は、私のせいだったんだ……)
兄が罪を犯すきっかけは、私。
結果として兄が両親を手にかけたのも、そもそもは私が兄を狂わせたから。
そして死にゆく兄を引き留め、そばにいてくれと強く願ったのも私。
願ったにもかかわらず、それを忘れていたのも……私。
事故で傷めた左腕が重い。
無意識のうちにるりは、右腕で左腕を抱くようにしてかかえる。
左腕は冷たく、死んでいるように感覚がなかった。
「どこへ行くつもりだ、病んだ剣をつれた幼き神鏡」
冷ややかな声。るりはぎくりと足を止めた。
すぐ目の前に、髪まで雪白という白づくめの少女がいた。
軽く見上げる位置に、一対の禍々しい緋色の瞳があって、真っ直ぐにるりを見ていた。
「ツクヨミノミコト……」
思うより早く、るりの唇は動いて美しくも禍々しい、神と呼ぶしかない存在の名を呼んでいた。
緋色の瞳が面白そうにすがめられる。
「お前の一族はどういう訳か、我を『ツクヨミノミコト』と呼ぶのだな。我は別にお前たちの祖先などではないのだが、まあそれを言えば高天原の神々を祀る者たちも同じか」
ふと少女……ツクヨミノミコトは頬を引く。
「先程の問いをくり返そうか?どこへ行くのだ、幼き神鏡。このままここをうろついていては、やがては死ぬぞ」
『死ぬ』と言われて恐ろしくなったが、ふと別の可能性が見えた。
「死んだら……お父さんやお母さんに会えるの?」
「それは無理だな」
切って捨てるようにツクヨミノミコトは言う。
「死んだ者は生き返らないし、生も死も孤独なものだ。特に死はそうだろう。光のまったくない暗黒の中で眠る、それが死だ。誰かに会えるとか会いたいとか、そんな生半可な気持ちで向かうような場所ではない。子供のお前には難しいかもしれないが」
そこでミコトは言葉を切り、何とも複雑な顔をした。
「お前の父の最後の願いが『神崎るりを守ってくれ』だったが。肝心のお前に、生きる気力がなくなっているようだな。その左腕に影響されているのかもしれないが」
ツクヨミノミコトの緋色の瞳が、るりの黒ずんで冷たい左腕を一瞥する。
「お前の左腕は死にかけている。死に瀕した病んだ剣がそこに寄生し、眠っているせいだ。……左腕を諦め、兄を永遠に眠らせるか?今ならまだ、左腕を持ってゆかれるだけで済む」
「いや、いや!」
るりは激しく首を振る。
「おにいちゃんをそんな寂しい場所にやらないで。私、一人はやだ。みんなと一緒におうちへ帰るの。帰りたい。帰りたい、帰りたいよう……」
泣くるりへ、ツクヨミノミコトは眉をひそめた。
「やれやれ。我は子守りなど性に合わぬ。常なら叩き出してやるのだが、神崎真言の最後の願いがお前の守護だ。このままではお前は、死なぬまでも正気を保てはすまい。少なくともお前が大人になるまで、我はお前の記憶を封印しておいてやろう、それでよいかな?幼き神鏡よ」
「シンキョウなんて知らない」
るりはべそをかきながら言う。
「私はシンキョウじゃないもん、神崎るりだもん。知らない、何にも知らないもん。……知らないんだから……知りたくない、よう」
「よかろう」
ツクヨミノミコトはため息まじりにこう言った。
「永遠に知らぬままではいられまいが。そうだな、再び我と会うようなことがあるまで、我は目を閉じていてやろう。それで当面、お前は見たくないものは見ず、知りたくないことは知らずにいられよう。幼き神鏡、まずは生きよ。十分生きた後に何を見出すのか……ここで我は待っていようぞ。……真幸くあれ、幼子よ」
るりはそこで、再びハッとした。
白い天井。
冷たいシーツ。
起き上がろうとした途端、全身の痛みが走って息を止める。
小さなるりはひとり、病院のベッドの上にいた。




