10 『生と死の狭間』で起こったこと②
兄の召喚に応じたのであろう、黒い靄が父の周りを取り囲んだ。
靄を払うように父は、青銅の剣を振り回す。
切られた部分は消えるが、別の場所からじわりじわりと靄が湧いてくるので、きりがない。
「柴田、押さえてろ!」
兄が命じる声のまま、靄は瞬くうちに蠢く無数の小蛇になり、父の手足に絡みついた。
「控えよ!」
裂帛の気が籠った父の叫び声。怯んだように小蛇たちは、あっという間に姿を消した。
「くそ、使えねえ」
兄は吐き捨てるようにそういうと、手元の刃を凶悪なまでに長く大きくした。
「まあ、あんなヤツ元から大して当てにしてねえよ。オレひとりで何とでもならあ、今すぐこれで心臓抉ってやる、クソ親父!」
叫びと共に兄は父へと走り寄る。
父は何故か逃げない。
青銅の剣をだらりと下げたまま、哀しそうに息子を見ている。
鈍い音。
しかし、胸に深々と刃が刺さっていたのは、父ではなかった。
ついさっきまでるりの隣にいたはずの……母、だった。
「ああ?か……かあ、さ、ん?」
「め……い?」
兄と父が茫然とし、つぶやいた。
二人とも、目の前の状況があまりよくわかっていないようだった。
「あ、き、くん。あきお……」
苦しそうに母は、自分よりも背が高くなった息子を見上げる。
ただ、母にはすべてがきちんと見えてはいないのだろう、彼女の瞳は定まることなくゆれ動いていた。
「あき、くん。鏡、を、見て。逃げ、ないで。あき、お……」
ふ、と、ろうそくの炎が消えるように母の姿がゆらぎ……煙になり、紺碧の空へと吸い込まれていった。
「めい……めい……」
茫然と母の名を呼ぶ父。母が消えていった空を見上げ、小刻みに震えている兄。
るりは動くことも出来ず、ただ一連の出来事を凝視していた。
どのくらい経ったのか正確にはわからない。
一瞬のようにも永遠のようにも感じる無音の後、はじけるような狂った哄笑が唐突に、白と青の狭間で響く。
「畜生!ちくしょうちくしょうちくしょう!」
兄はわめき声を上げ、闇雲に父の左胸へ、手にした刃をくり返し埋めた。
父は軽くよろめく。
しかし何を思ったのか、父は自分の胸に刃を埋める息子を刃ごと、きつく抱きしめた。
「あきお……」
ごぶりと血を吐き出しながら、父は狂ってしまった息子の名を呼ぶ。
「可哀相な奴め。今のお前は……ただの人殺しだ」
つぶやきと同時に父は、兄の背中に青銅の剣を突き立てた。びくりと身をゆらせた後、兄の身体は脱力する。
そのまま二人は白の大地へ、よろめきながら座り込んだ。
るりは意味をなさない叫びを上げ、もつれる足で父と兄の許へ行く。
血の気のない顔色をした父がるりを見た。少し驚いたように目を見張ったが、すぐかすかにほほ笑んだ。
「……いやあ!いやいやいや!なんで?どうして?」
信じられないことばかりが目の前で起こり、るりには理解出来なかった。
大好きな家族がののしり合い、殺し合う。
今まで見たどんな悪夢よりも恐ろしい悪夢、そんな風にしか思えないが、これが夢であって夢でないことも本能のようにわかってしまう。
「どうして?どうしてなのよう!」
ただ滂沱と涙を流し、るりは父へ責めるように問い続ける。
「ごめん」
父は泣きそうな目をしてるりへ謝った。
「ごめんよ、るり。お父さんの力不足だ」
一度目を閉じ、彼は血で汚れた口許で美しくほほ笑む。完全に脱力した兄の身体を父は引き寄せる。
「お父さんもお母さんもお兄ちゃんもいなくなるけど。るりは、元気で暮らすんだよ」
涙を呑んでるりは硬直する。
「生きろ、るり。お父さんとお母さんとお兄ちゃんの分も」
父はふと、空へ向かって顔を上げる。
「ツクヨミノミコト。御照覧あらば当代の鏡の願いをお聞き届け下さい」
ひとつ息をつき、父は続ける。
「何卒、神崎るりをお守りください!」
言葉と同時に父と兄の姿がゆらいだ。
「やだ!行っちゃやだ!」
必死に兄の、血で汚れた袖をつかんだ。
たとえ何を犠牲にしても、独りきりになるのは嫌だった。
「いや!行かないで!そばにいてよ、おにいちゃん!」
「……わかった。オレの鏡」
くぐもった声で兄が答えてくれ……、途端にすさまじい衝撃が来た。
左半身へ、叩きつけられたような痛み。
るりはハッとして目を開ける。
視界が左に90°、傾いていた。




