10 『生と死の狭間』で起こったこと①
空間から、兄が転がり出てきた。
ハッとする。
ああ、これは八歳のあの日だ。
あの日の『生と死の狭間』での記憶だ。
そう思いながらるりは息を殺し、母の手を握りしめて固唾を飲んだ。
「何故逃げる?明生」
父が怒りを押し殺した静かな声で問う。
パジャマ姿の兄は肩で息をしながら身を起こし、父をにらみつけた。
「うるせえ!て言うか、そっちこそなんで追いかけてくるんだよ!」
舌打ちをして兄は言うが、父は微動だにしないで兄を見下ろしている。
「問いに答えろ、ごまかさず。何かやましいことをしているのか?」
「や……べ、別に。やましいことなんか……」
そう言いながらも兄の目は落ち着きがない。
「明生」
一度そこで息をつき、父は思い切ったように言った。
「柴田さんが亡くなったらしい」
ぎくっと身を震わせる兄へ、父は言う。
「お前が、殺したのか?」
「あ……ああっ。ああそうだよ、殺したよっ」
やけくそのように兄は、父から目をそらせたまま怒鳴った。
「殺したよ、殺してやったよ!いいんだよあんな変態。害虫みたいなもんじゃねえかよ、害虫殺して何が悪いんだよ!」
「馬鹿者!」
父が怒鳴った。
るりの記憶にある限り、父が怒鳴ったのはこの時が初めてだ。
「柴田さんは害虫なんかじゃない!」
「ロリコンの変態じゃねえかよ!そのうち女の子誘拐するような、いかがわしい犯罪者になるに決まってんじゃん!変態なんか早いうちにぶっ殺した方が、よっぽど世の中の為になるだろう?」
「お前は何様のつもりだ!」
怒鳴られ、兄は目に涙をためて父をにらみつけた。
「だって……だってあいつ、るりを……」
「あの人がるりに、何かしたのか?」
静かに問う父へ
「な、なにも、してない、けど……」
嗚咽をもらして兄は答え、父をにらむ。
「してなかったら、してなかったらそれでいいのかよ!オレ、オレだって、小さい頃から……」
ひっくり返った声で言い募る兄。父が軽く目を伏せ、深いため息をついた。
「お前たちがどんな思いをしたのか、わからなくはない」
「嘘つけ!」
兄は叫んだ。
「わかってたらそんなに落ち着いてられっかよ!もう忘れてんだよ父さんは。おっさんになったから変態の妄想の餌食にもなんないしよ。せいぜい、その辺のババアにいやらしい目で見られている程度で済んでるんだろ?オレなんか毎日のように、大人からもガキからも身体中を舐め回されるみたいな目で見られるんだぞ。男も女もエロボケしたヤツばっかで、吐きそうだよ!」
「……だから。父さんは中学生くらいまで、学校を休みがちだったんだよ」
声を落として父は言う。
「学校の教師もクラスメートも、誰も信じられなかったんだ。もっともらしい顔をした人気の熱血教師に、どれほどひどい妄想で繰り返し凌辱されたか。クラスメートだってそうだ、もちろん他意のない者もいたがな、五人に一人くらいは際どい妄想を持ってこっちを見ているんだ。服を脱がせたいとかあえがせたいとか、頭の中で思ってる。父さんもお前くらいの頃は、人間が嫌いでたまらなかったよ。人間なんて一皮むいたら、ゴミ溜めみたいに不埒な欲望を抱えてるんだって絶望的な気分で思っていたよ……」
涙にぬれたまま、兄は茫然と父を見上げていた。
だが、と、父は兄を見据える。
「そう言う我々は、どこから見ても清廉潔白なのか?明生、お前は好きな女の子を、頭の中で裸にしたことはないのか?触れたいとか抱きしめたいとか、かけらも思った事はないのか?」
兄がぐっと詰まる。
「柴田さんに困った性癖があるらしいことは知っていた。だが、彼は彼なりにきちんと自制心を持っていることもわかっていた。彼の欲望をそそるような機会は、極力減らす努力をした方がいい。だが、だからと言って彼を殺すのは完全に間違っている。明生、お前の理屈は、性欲を持つ者はすべて性犯罪予備軍だと言っているのと同じだ。妄想を持つことが殺されるほどの罪なら、この世に人間などいなくなる。人間どころか、あらゆる生き物がいなくなるだろうな」
(こんな……ことを言い合っていたの?)
母と一緒に少し離れたところにしゃがみ、二人のやり取りを見ながらるりは思った。
あの時、とても緊迫した雰囲気は感じていたが、内容は半分ほどしかわからなかった。
今ならわかる、月の氏族の生き辛さが。
心の柔らかな幼少期や思春期に、不特定多数の人間の妄想による性的虐待を受けざるを得ないのがこの能力だ。
「明生、お前は罪を犯した」
父の声が響く。
「月の鏡を見て、己の心の形、歪みをまずは知れ」
父の両のてのひらが輝く。その輝くてのひらを、父はゆっくりと兄へ向けた。
「己れの真の姿を知れ」
気のこもった父の言葉。言霊、と呼びたくなる重みにるりは息を呑む。
「明生。その本性明き者、明き方へと生命を伸ばす者。鏡を……」
「ぐおおおおおお!」
けだものの咆哮にも似た叫び。
兄は立ち上がり、いつの間に手にしていたのか黒光りする刃を、無茶苦茶に振り回しながら父へ向かってきた。
ひどい金属音が辺りに響き渡る。父は、手にしている丸い銅鏡……のようなもので刃を受け止めていた。
「明生」
父がうめくように言う。
「お前は……祟り神にでもなるつもりなのか?」
「うるせえ!」
目を吊り上げて兄は吠える。
「うるせえ、うるせえ、うるせえ!」
父の手の中の銅鏡が、ふっと形を変える。細身の青銅の剣になり、兄の刃をはじき返した。兄が目を見張る。
「鏡は戦えないとでも思ったのか?ここは父さんの『場』だ。場の主が圧倒的に有利なことくらい、お前にもわかるだろう?」
兄の目が激しく揺れ……不意に凶悪に光った。
「だから何だよ、クソ親父。あんたがどんだけ頑張っても、能力はオレが上だよ。それこそわかってんだろう?」
ややよろめきながら兄は父から離れ、背を伸ばす。
「……柴田。剣が命じる。月の鏡・神崎真言を殺す。手伝え!」




