9 水の音⑦
ツクヨミノミコトは可笑しそうに口許をゆがめる。
「それは難しいな」
「何故ですか?」
思わずなじるような問い方になり、るりはあわてて口をつぐんだ。
「理由はふたつばかりある」
ツクヨミノミコトは相変わらず可笑しそうな顔をして続ける。
「まずひとつ。結木草仁が必ずしもそれを望んでいないからだ」
え?とるりは口の中でつぶやく。そんなことがあるだろうか?
「結木草仁はこう願った。『神鏡の巫女姫である神崎るりの、月の御剣との契りを解いてほしい』とな」
「そんな!」
るりはてっきり、『月の御剣の呪いから解放してくれ』と頼んでいるのだと思っていた。『かの方と決着をつけて呪いから自由になる為に』と、言っていたではないか!
「もちろん、結果的にはそうなる」
ツクヨミノミコトは淡々と言う。
「お前の病んだ剣がお前との契りから外れれば、剣としての呪いも自然に消える。あの男とすれば、仮に今、自分にかかっている呪いが生きている限り影響を及ぼさなくなったとしても、お前と剣の契りを解かないことにはお前に未来はない、お前に未来がないということはあの男にとっても未来がない。少なくとも現時点ではそう思っているということだろうよ」
「わ、私の未来がないことと彼の未来が……」
言いかけ、その意味を理解する。こんな状況なのに顔が熱くなる。
「もうひとつ」
ツクヨミノミコトは淡々と言葉を続ける。
「今のような中途半端な状況では、お前と剣の契りを解くのは難しい。この契りは強固で、無造作に割くと互いに消滅する可能性が低くない。お前が兄であった剣とどのような言霊で契りを結んだのか、そもそも忘れている今では結び目すら定かでないのが現状だ」
「契りを結んだ……?」
言われてみればるりは兄と、比翼たる『鏡と剣』になるという契りを結んだ記憶がまったくない。
言挙げし、誓わねば契りは成立しない。
記憶でない記憶がそう教えてくれる。
なのにその記憶が丸ごと、そっくりないのだ。
ツクヨミノミコトはるりの目を覗き込む。
「思い出すのは容易ではない。お前が今まで激しく拒んできた記憶だ。我に『目を閉じていてくれ』と願ったのも、この記憶に蓋をする最もいい方法がそれだったからだ」
不意に心臓が痛いほど脈打った。
全身の毛穴が収縮するような危機感に、この場から走り去りたい衝動に駆られる。
「神鏡」
ツクヨミノミコトは不意に真顔になる。
「それを、取り戻す覚悟が本当にあるのか?……大事なことだ、よく考えろ」
「う……」
もちろんある、と答えようとして言葉がつまる。
行けば死ぬとわかっている場所へ無造作につっこんで行く者は、愚か者か狂人だ。
幸か不幸か、るりはまだどちらでもないらしい。
指し示す方向はひとつだが、言葉がどうしても出てこない。
まなかいにふと、初夏の陽射しの下でふわりと笑む結木の顔が浮かぶ。
この笑顔を守りたい、最初にそう思った時が恋のはじまりだった。
なら、その思いを貫こう。
るりにとって人生最初で最後の恋だ。殉じる以外、ある訳がない。
「ツクヨミノミコト」
大息をつきながら、るりはるりの神へ呼びかける。
「記憶を、取り戻します。もう逃げません」
禍々しくも美しい神は、かすかに笑んだ。
「よかろう。自分自身から逃げない者は嫌いではない。逃げねば生きられなかった子供でなくなったことを寿ごう、神鏡の巫女姫。では……」
ツクヨミノミコトは一歩、るりに寄った。
「我の目を見ろ。……決してそらすな」
血色の瞳が、るりの視界いっぱいに広がった。
(血……血の色)
あの日のあの時に、見た色。




