9 水の音⑤
「神崎さん?」
ぼんやりしているるりを不審に思う、あるいは心配して……かもしれない。
結木が声をかけてきた。
ハッとして彼の顔を改めて見て、るりはぎくりとした。
結木の顔はやつれている。
よく見ないとわからない程度の差だが、顔色は相変わらず良くないし目の下に隈が出来ている。
こころなしか、呼吸も浅くせわしない。額にうっすら汗が浮いている。
激務から解放されたばかりの人のような、どこか茫然とした雰囲気も揺曳している。
何故か泣けてきた。
彼にはアチラが毒なのだ。
死に限りなく近付くあの狭間にいると、命が削られてしまうのだ。でなければこんな疲れた顔にならない。
しかし自分はどうだろうか。
絶好調ではないが、特に不調も倦怠もない。
狭間で死に近付くくらいでは、るり……否、月の氏族の末裔である者は、大してダメージを受けないらしい。
そう言えばかつて大楠が言っていた。
『天照大御神が昼の世界、つまり現世をしろしめす神なら、月夜見命は夜の世界、つまり隠り世をしろしめす神』と。
『夢、本音、死を司る』と。
『為政者を陰から支え、しかしその役割上表に出ることのない氏族として、歴史の陰でひっそりと血を繋いできた』と。
為政者の隠された切り札だから、月の氏族が他から隔離されてきた部分は大きいだろう。
(……でも多分、それだけじゃない)
要するに昼の世界では生きてゆきにくい者たち、隔離された方が生きやすい者たちだったのだ。
初めて会った日の彼を、るりは不意に思い出す。
明るい初夏の日差しを浴びて、ふわりと笑む彼を思い出す。
(クサのツカサには、やっぱりおひさまがよく似合う……)
あの草原の丘にいる若木の枝をゆさぶる風は、おひさまの下で吹く風でなくてはならない。
月影の下で生きる忌まわしい自分など、そもそも彼の隣に相応しくないのだ。
思うと泣けて仕方がない。
彼のことを思うなら、自分は彼から離れるべき。
だけど『彼から離れる』と思うだけで、本気で切られるような痛みがして、息が止まりそうだ。
「神崎さん?どうしたんですか?ひょっとしてどこか痛むんですか?」
泣き出したるりへ、彼が焦ったように言う。
かぶりを振りながら、そう言えば彼の前では泣いてばかりだと思う。
今まで、祖父母を含めた身内にもクラスメートにも、泣かない子だとるりは言われてきた。
自分のせいで死んだ子にも涙ひとつこぼさないなんて、呪われ少女は冷血なんだと噂されたこともある。
自分には泣く資格さえないと思っていたからだが、そんなことを言っても誰にも理解してもらえない自覚はあった。
クラスメートの死を前にしても、涙さえ流さない冷血の呪われ少女だと思われた方が、ひとりになれて気楽でもあった。
だけど、彼の前では何故かるりは、乾き切っている筈の涙腺から勝手に涙があふれ出てくる。
なんだかあざとく彼に甘えているみたいで、るりは心底、自分が嫌になった。
「ごめんなさい。痛むとか、そういうことじゃないんです」
涙を呑み、るりは笑みを作る。
「結木さん。オモトノミコト……一角のミコトと、お会いになれたんですね」
何故知っていると言いたげに目を見張る結木へ、るりはさらに笑みを深める。
「おめでとうございます……見えていました、全部ではありませんけど」
「え?」
愕然、と言いたくなるような顔で絶句する彼を少し不思議に思ったが、るりは続けた。
「どうやったのか何故出来たのか、まったくわかりません。でも私は、さっき野崎さんから神事についての説明を聞いているうちにアチラ……『生と死の狭間』へ、行っていたのです。そこで結木さんと一角のミコトがお会いになったところまで確認しました。確認出来てすぐ、急に眩暈がしてアチラから戻って来たみたいですけど」
結木はよほど衝撃を受けたのか、絶句している。
「『もし神鏡の巫女姫あらば、ことごとくは詳らかになりぬ』……ウチで最古の記録にあった、当時のツカサの愚痴として記されている言葉ですが」
唸るような声で野崎氏は言う。
「本当だったんですね」
「神崎さん」
ようやく衝撃から立ち直ったのか、結木がるりに視線を合わせた。
「この神事は個人の中で完結すると言われてますし、今までの経験からでも、そうやろうなという感触があります」
疲労の為だけでなく、結木の顔が青ざめている。
「自分という絶対の孤独の中で、自分だけのオモトノミコトとお会いして己れを知る、そういうものなんです。だから当然、他人の神事へは入れません。禁じ手として割り込む方法はなくもないですけど、それをやったら割り込む方も割り込まれた方も多大なダメージ食らって、最悪死ぬんです。でも……神崎さん。月の氏族の方は、そうやないんですね」
「『さながら鏡に映すがごとく、ことごとくが詳らかになりぬ』。互いが疑心暗鬼になって村が乱れた頃、当時のツカサが残した愚痴ですが。神鏡の巫女姫の前では嘘や取り繕いは通用しない、無慈悲なまでにすべてが明らかになるから、と。その意味が、少しは実感を持って理解出来ますね」
野崎氏もやや青い顔をしている。
(化け物なんだ、やっぱり)
るりは思う。なんだかかえって清々しい気がした。
(人間じゃないんだ)
他人の夢……心を覗く者なんて、人間として生きていてはいけない。
(だから最後に。この優しい人だけは、救おう)
るりは静かに目の前にいる人を見る。
夢で出会っただけの女の子を、本気で心配する若木。
初夏のおひさまの下で、ふわりとほほ笑む浮き世離れた樹木医。
大松の下で無邪気に無心に眠る、ヒト科の獣。
狡猾な狩人の弾丸が来ると知っても怯まない、片角を欠いた主の大鹿。
『生きよ』の三文字でるりを癒し、元気づけた書家。
そして。
青白い幻の炎という霊力をまとった、土地神の化身たるクサのツカサ。
彼は、るりにとって世界の半分と言える人だ。
もしかすると世界のすべてかもしれない。
彼が生きて幸せならば、るりの人生は最終的に満たされる。
自然と笑みがほころぶ。彼を生かす為ならば、死ねる。
とても静かにとても素直に、るりは思った。
月の御剣の呪いから彼を解放するのに、自分の出来ることがひとつだけ、ある。
まずは木霊たちのいう『閉ざしている』状態をやめなくてはならない。
どこをどう閉ざしているのか、ようやく少しわかってきた。
閉ざすことをやめてすべてを思い出したら、もしかすると狂い死ぬかもしれないという恐れが刹那、胸をよぎった。
でもその道を通らずに、御剣を完全に制する以前、話をすることすらできない。
彼が命懸けでアチラへ行き、一角のミコトとお会いしたように、るりも命を賭けなくてはならない、ということなのだ。
『おもとの泉』から流れる水の音が、不意に強く、るりの耳朶へ響いた。




