9 水の音④
るりは何故か今、中空にいる。
涼やかな早朝の大気。明るむ家並みの向こうに奈良との県境の山が見える。
下へ目を落とす。
眼下に広がるのは、規模は小さいながら古いたたずまいの森。
森の中央にあるのは小さな祠が祀られた泉。
湧き出し、いずこともなく流れてゆく水の音。
るりはその岸辺に、黒っぽい人影を見付けた。
その人は片膝をつく形でしゃがみ、白木のひしゃくを両手で捧げ持って軽く頭を下げた。
「一角のミコトへ、ご挨拶を申し上げます」
(ウチの産土神は通称として『オモトノミコト』とお呼びしてますけど、実はお名前があってないようなお方でしてねえ)
小波へ向かう車中で聞いた話を、るりはふと思い出す。
その流れで、結木は結木個人の『オモトノミコト』の呼び名として、『一角』もしくは『一角のミコト』と呼んでいるのだと聞いた。
(片方のツノが半分ほど欠けた、馬ほどもありそうな白い鹿なんです。少なくともボクにはそう見えるんです。身体もツノも真っ白で、瞳は氷河の割れ目みたいな、この上なく冷たい青なんです。あのお方の青い目ェに睨まれると、なんちゅうか、心臓の止まりそうなヒヤッとした感じがしますねえ)
話を聞いていてるりは、その日の朝、松の木の下でるりを守ると言い切った彼のたたずまいを思い出した。
彼はまるで、片角を欠けさせた森の主たる大鹿のようだと思った……。
捧げ持ったひしゃくから、結木は一口、水を飲んだ。
その刹那。
彼は、ピシリと音がしそうな感じで硬直した。
(え?)
るりは驚き、彼の様子を確かめたい、近付きたいと『思った』。
視界がくらりとゆらぐ。
次に意識がはっきりした時、るりは、とても不思議な場所にいた。
足元は、雲か霧かと思うような真っ白なもので覆われた大地。
見上げると、怖ろしく澄んだ雲一つない紺碧の空が広がっていた。
そしてそれ以外、物も色彩も何もない。
(ここは……)
夢で見た世界、だ。
父と母に手を引かれ、無言で歩いた世界。
(……『生と死の狭間』)
ここには来たことがある。
だしぬけによみがえる記憶。
眠りから目覚めない兄を連れ、よくわからないどこかへ、最後に家族で出かけたあの日だ。
隣の席で眠り続けている兄。
必死にこらえていたのに眠り込んでしまったるり。
その眠りの中で、見た夢がここだ。
ここはどこ?と、辺りを見回しながら傍らにいる厳しい顔をした父に問うと、『生と死の狭間』だと彼は答えた。
いいと言うまで絶対お父さんの手を放すな、ここはとても危ないからと、怖い顔をして父が言うので、るりは震えながらわかったと答えた。
(あの夢は、夢であって夢ではなかった、のね……)
父が言っていた『神崎の先祖が住んでいた場所』はここだ。
本当に住んでいたというのではなく、そうとでも説明しなくては子供のるりや他人には納得してもらえない場所ということなのだ。
風圧のような強い光のようなものが、唐突に地平の彼方からこちらへ来る気配がした。るりはハッと我に返る。
その圧倒的な気配へ向かって、ゆっくり歩いてゆく人の背が見える。
黒の紋付き羽織袴を身に着けた、姿勢のいい男性……結木だ。
圧倒的な存在感の何かが、やがて地平の果てに姿を現す。
重そうな角を戴いた真白の大鹿だ。話に聞いていた通り、片側の角が半分ほど欠けている。
一角のミコトだ。
そちらへ向かい、結木は歩く。背中にも肩にも緊張のこわばりが認められるが、歩く速度は変わらない。
結木へ向かって、一角のミコトも足を進める。
1mほどの距離を開け、互いは正面で対峙しあう。
「お久しぶりです、一角のミコト」
ややあってから大きく息をつき、頭を下げる結木へ、真白の大鹿はつまらなさそうに鼻を鳴した。
「確かに久しいな。わざわざこんなところまで来るとは、よほど切羽詰まっているか死にかけているか、そのどちらかというところだな」
男のものとも女のものとも思えない、若いような老いているような不思議な響きの大鹿の声は、ひどく冷ややかだった。
「どちらも、でしょう。実は、怨霊となってしまった病んだ月の御剣の呪いを受けてしまいました。当然自分にできる最善を尽くしますが、かの方と決着をつけて呪いから自由になる為に、ミコトのお力をお貸し下さいませ」
それへ大鹿は何か答えたが、るりには聞き取れなかった。
突然視界が暗くなり、激しい眩暈がして気分が悪くなった。
思わず膝をつき、るりはその場へ倒れ込む。
最後に一瞬だけ一角のミコトが、ちらりとるりを見たのだけは覚えているが、後の記憶はない。
慌てたような声で呼びかけている野崎夫妻と結木が、目を開いたるりの前にいた。
野崎邸の離れのダイニングだ。
ちゃぶ台の上のお茶がすっかり冷めている以外、特に変わったことはなさそうだった。
「神崎さん?大丈夫ですか?」
結木が問うのへ、るりは顔を上げてのろのろとうなずいた。目に見えて彼の顔が和らいだ。
「ああ、良かった。一体何がどうなったんやと肝が縮みました。まさか御剣さんが最終手段へ打って出たんかと」
「いや、驚きました」
野崎氏もホッとした顔になり、額に浮いた汗をのろのろと指でぬぐった。
「話の途中で巫女姫が急に黙ってしまわれたので、変だなと思ってよく見たら。息もしてらっしゃらない雰囲気だったので、焦りました」
「救急車を呼ぼうかとも思ったんですけど、草仁さんの神事と共鳴しているのではとも思い、それでは騒ぐのも良くないだろうと。年寄り二人がうろたえているうちに草仁さんがお戻りになられたんです」
夫人も苦笑い含みに言う。
「あ……すみません。ご心配、おかけしました」
そう言ってるりは頭を下げたが、自分の身に何が起きたのか、今の段階でははっきりわからなかった。
ただ……。
(私は、やっぱり化け物なんだ)
改めて思い知る。
怨霊憑きの呪われ少女だから、なのではなく、その気になれば『生と死の狭間』へすんなり行ける、そういうことが出来てしまう血筋の者だという意味で。




