9 水の音③
「緊張がほぐれましたね、草仁さん」
野崎氏の声に、結木はハッとしたように目を上げた。一瞬後、彼は淡い苦笑いの気配を頬にただよわせた。
「……ええ。お陰様で。緊張感を持つのはいいでしょうが、緊張しすぎは碌なことになりませんよね。お気遣いありがとうございます」
野崎氏は頬を引き、かぶりを振った。
「いえ。私に出来ることはほとんどありませんが、応援だけは出来ますので精一杯させていただきます。何卒お気を付けて」
ありがとうございます、とつぶやくように言って軽く頭を下げ、結木は静かに立ち上がった。刹那、幻の青白い炎が彼を包む。
その瞬間、野崎氏の表情がこわばった。
見えてはいないようだが、青白い炎……おそらくはオモトノミコトの霊力、を、彼も感じ取っているのだろう。
「松英さんにお願いがあります」
瞳の中に霊力の炎の余韻を残したまま、彼は野崎氏へ視線を向ける。野崎氏は息を呑むような表情で彼を見返すと、かすかにうなずいた。
「もしボクが、今から三十分経ってもこちらへ戻らなかった場合。お手数ですが、泉まで様子を見に来て下さいませんか?」
野崎氏はひゅっと息を引き込んだ。ややあって彼は、笑みを作ると力強くうなずいた。
「承りました」
結木は部屋を出た。
背筋を伸ばして歩み去る彼の後姿が戦地へ赴く兵士のように見え、るりは知らず知らずのうちに戦慄いていた。
野崎氏とるりは、廊下を進む結木の後姿を彼が角を曲がって見えなくなるまで見送った。
その後ダイニングへ戻ると、慣れない手つきで野崎氏がお茶を入れてくれたのでいただく。
「あの」
少し濃すぎるお茶を一口飲んだ後、るりはおそるおそる野崎氏に問う。
「さっき結木さんとお話になっていた内容について、お訊きしてもかまいませんか?」
野崎氏はゆのみを置き、物問いたげにるりを見た。
「三十分経っても戻らなければ……って、結木さんはおっしゃっていましたけれど。それってどういう意味ですか?」
野崎氏は真顔になる。
「草仁さんが試そうとなさっているのは、かつて我々が年に一回、オモトノミコトとお会いする為に行われた神事です」
そこで野崎氏は、どう説明すればいいだろうか、と言いたげに眉を寄せた。
「神崎さんも少しはご存知でしょうが。小波にある『おもとの泉』という特別な泉には、産土神であるオモトノミコトに近しい霊力があったのです。その泉の持つ霊力と、何と言いますか親和性のある者が選ばれて、泉の守り人である『おもとの守』という役目を担ってきた訳です。しかし泉に選ばれさえすれば『おもとの守』になれるのではなく、オモトノミコトとお会いして、ミコトのお眼鏡にかなわない者ははじかれるきまりになっていました」
野崎氏は考えながら、一度お茶で口を湿らせた。
「オモトノミコトとお会いする方法が、作法に乗っ取って泉の水をいただくことでアチラ……オモトノミコトのいらっしゃる『生と死の狭間』へ行くことでした」
何故かるりの胸の奥が鳴った。
『生と死の狭間』という言葉が、初めて聞いたはずなのに聞き覚えがあるような気がしてならない。騒ぐ心をごまかすようにるりは、濃すぎるお茶を一気に半分近く飲んだ。
野崎氏は説明を続けている。
「『生と死の狭間』は文字通り、生者と死者の世界の狭間にあります。生きている者と死んだ者は本来まったく違う存在で、混じり合ってはならないのです。生きている者が生きたまま死者の世界へ行くことも、死んだ者が死んだままで生者の世界で活動することも出来ません。出来ない、とオモトノミコトはおっしゃいました。死にかけた者が生者の世界へ戻ってくることは稀にありますが、死んでしまった者が生き返ることはあり得ないそうです」
(死んでしまった者は……生き返らない)
不意に激しく胸が騒いだ。
この言葉はどこかで聞いた、確実に。冷ややかな、親しみの一切ない男の声が
「死んだ者は生き返らない」
と、言った。るりはそれを聞き、すさまじく絶望した。
遠い……遠い昔の思い出だ。
「オモトノミコトと我々がお呼びしている方は、その『生と死の狭間』にいらっしゃいます。霊力ある泉の水を作法に従って一口いただくことで、我々『おもとの守』はアチラへ行き、オモトノミコトとまみえます。ただ……」
野崎氏は逡巡するように口ごもったが、るりの目を見てあきらめたように言った。
「生者がアチラへ行くのは、やはり危険が伴います。場合によっては死の側へ転がり落ちてしまう可能性が否定できません。だから草仁さんは万一の場合に備え、あまり帰りが遅い場合は様子を見に来てくれと……」
野崎氏の声が不意に間遠になり、今までほとんど聞こえなかった水の流れる音が何故か、るりの耳へ大きく響いてきた。




