9 水の音②
翌朝。
るりは、4時には身支度を終えていた。
取りあえずお茶だけは淹れて飲み、離れへと向かう。
離れへの渡り廊下の手前で、野崎氏と行き会った。
「おはようございます、神崎さん」
「おはようございます」
野崎氏は今日も初めて会った時と同じような、きちんとしたポロシャツにアイロンの当てられたコットンパンツだ。眠気など微塵もない、すっきりとした顔で彼はほほ笑んだ。
「どうですか、寛いでお過ごしになられていますか?」
「ありがとうございます。奥様にはすっかりお世話になっています」
少し硬くなってるりは答える。
悪い人ではないだろうが、野崎氏には上に立ち慣れた者によくある無意識の傲慢がにおう。彼自身は意図していないだろうが、向き合った者に緊張を強いる雰囲気があるのだ。
結木と一緒に会った時はそれほどとは思わなかったが、野崎氏と一対一で向き合い、るりは改めてそうだと気付いた。
本音を言えば、苦手なタイプの老人だ。
職場で一緒に作業すると、持て余しそうな人だなと密かに思う。
「もし何か御要望がございましたら、遠慮なくおっしゃって下さいね」
「とんでもないです。これ以上わがままを言うと罰が当たってしまいます」
るりとしては真面目に言ったのだが、野崎氏は笑った。
「遠慮深いですね。もっとわがままでちょうどいいくらいですよ、貴女はそれだけの方なのですから」
『それだけの方』とはどういう意味か問いたかったが、もう離れの入り口だった。野崎氏が扉へ軽く合図をする。
「野崎です。神崎さんもいらっしゃいます。入ってもよろしいでしょうか?」
どうぞ、という静かな返事があった。
扉をくぐり、るりは一瞬、棒立ちになった。
ダイニングの、何となく彼がいつも座っている場所に座布団を敷き、すっと背を伸ばして結木は正座していた。
緊張しているのだろう、顔色が少し悪かったし、いつもより表情が険しい。
正装と聞いていたのでフォーマルスーツだろうとるりは勝手に思っていたが、意外にも彼は、紋付き羽織袴を隙なく着こなしていた。
着こなしているのもそうだし、彼が自分ひとりで和服を着るらしいのにも驚く。恥ずかしい話だが、るりは一人で着物を着れない。
和装のせいか、今日の彼は髪を全体に後ろへ流している。
前髪も後ろに流しているので眉の上の傷がむき出しになっていたが、常より険しい表情ともあいまって、そこがかえって不思議な魅力というか色気になっている。
るりはなんとなく目をそらした。
「惚れ直しましたか?神崎さん」
諧謔を含んだ野崎氏の言葉に、思わず赤面してしまった。
「しょ…松英さん。冗談はやめてくださいよ」
結木も少し赤くなって言った。しかし野崎氏は面白そうに
「別に冗談やないですよ。爺さんの私でも、おっと思う男ぶりです。よくお似合いですよ草仁さん、恋人やったら惚れ直して当然です」
少しくだけたのか、ところどころに大阪方言をまじえて野崎氏は言う。そして、ねえ神崎さん、と、少々意地悪そうな笑みを目許に浮かべ、野崎氏はるりを覗き込んだ。
「あ、その」
うろたえながらも、るりは大きく息をついて心を落ち着かせる。
「えと、確かによくお似合いですね。何て言うのか……和物の芸事の、若お師匠さんって感じがします」
「和物の芸事のお師匠さん。そう言えなくもないですよね、草仁さん」
るりに座るよう勧めながら、野崎氏は言う。結木は軽く苦笑いする。
「まあ……そうですね。一応院生の頃から他人さんに書道教えて幾ばくかの金をもろてますから。そう言えなくもないです」
その言葉を聞いた途端、るりの中で『書道』『結木草仁』がスパークするように結びついた。
偶然立ち寄った書道展。
『生きよ』という3文字だけの端正な作品。
そして『結木草仁』という作者名。
「結木さん。結木さんって……もしかしてあの『結木草仁』なんですか?十年ちょっと前、書道展で見かけた『生きよ』って作品の、作者さん、なんですか?」
思わずるりが言うと、結木はまんまるに目を見張った。
「ええ?いや、ボクは決して『あの』結木草仁とか言われるような書家やないですけど、十年くらい前に『生きよ』って作品を書いたのは確かです。え?ご存知なんですか?」
るりがうなずくと、結木の表情が目に見えて柔らかくなった。
「……そうですか。いやあ、本気で嬉しいですね。あの頃、ちょっと色々思うこともありまして。書家としての自分の立ち位置を模索して、あがいてもいましてね。あれは、初心に返るつもりで書いた作品なんです。自分としては好きなんですけど地味な小品ですし、自分以外には意味のない作品やと思てました。まさか、十年経っても覚えてくれてはるお客さんがいてはったとは、思いもよりませんでした」
「あれは確か、関西の若手の書家たちが合同で開催したものでしたね。系列のギャラリーを中心に、日本中を巡りましたっけ?」
野崎氏の言葉へ、結木はうなずく。
「最初で最後の大掛かりな催しでした。予算やらなんやらを考えたら、今後は難しいでしょうね」
結木は改めて、るりの目を見てふわりと笑った。
「ありがとうございます。たとえ一人でも覚えていてくれはる方がいてたんやったら、あの作品は作品として幸せやと思います。……ありがとうございます」
そう言って頭を下げる結木へ、るりはかぶりを振る。
あの作品に礼を言うのはむしろ自分のような気がするが、上手く言えない。
「お礼なんかやめて下さい、結木さん。私は……あの作品が、今でも好きなだけなんですから」
彼は心底幸せそうに笑った。
「それこそが一番嬉しい褒め言葉です。やっぱり、ありがとうございます」




