9 水の音①
客間へ戻る。
時計を確認すると、もう午後9時だ。
暗くなったせいか、廊下からの灯りに浮かぶ室内がひどくがらんとしていて、寂しい。
るりはのろのろと灯りを点した。
部屋の隅にある背の低い小卓の上には、ポットと茶葉、ゆのみや急須が用意されている。有り難く使わせてもらい、お茶を入れる。
お茶をゆっくり飲んでいると、どこからともなく水の流れる音が響いてくる。起きた時は気付かなかったが、話に聞いている『おもとの泉』が、この近くにあるのかもしれない。
(……寂しい)
胸でつぶやき、はっとする。
今まで思ったことがなかった、寂しい、なんて。
寂しさを知らない訳ではない。
むしろ寂しい状態の方が平常でさえある。
周りから疎まれ、あるいは自ら望み、るりは集団から外れて独りでいることが多かった。
次々に近しい身内と死に別れ、今も職場の近くのワンルームマンションに独りで暮らしている。
だけど、こんな寂しさやこんな孤独感、まるで世界でただ独りきりになったような圧倒的な寂寥は、初めてだった。
(おにいちゃん……)
知らず知らずのうちに兄を呼んでいて、はっとする。
諸悪の根源とも言える疎ましい兄を呼んだりする自分が自分でわからず、るりは軽く混乱した。じっとしていられなくなり、立ち上がって障子のはまった窓へ寄る。
障子戸もサッシの窓も開け、暗い外を眺める。
古い大きな庭は古くからある森のよう、少し行った先には大樹が鬱蒼と茂っていた。
その木立ちの向こう側から、静かに水音が響いてくる。
闇に沈む木々の影を、るりは窓の寄ったままぼんやり見つめた。
思えば。
完全にひとり、だったことは、なかったのかもしれない。
意識していた訳ではないが、るりは、兄が身近にいるのを知っていた。
るりに特別な感情を持つ男性や、るりが特別な感情を持つ男性がいない限り、兄はただ静かにそばにいるだけだった。
疎ましい、頼むからどこかへ行ってくれと、常に心の隅で思っていた。
だが、たとえるりがどれほど疎ましいと思っていても、兄がどこにも行かずに自分のそばにいるのを、傲慢にも当然のことだとも思っていたのだ。
(おにいちゃん)
怨霊になってしまった彼と、今後一緒にいるつもりはない。
それに、兄には今まで迷惑ばかりかけられてきた。
彼はすでに許せる許せない以前のすさまじい悪行を、幾つも重ねてきた。
浄化されて逝くべき存在だ、それも本来ならばもうとっくに。
……でも。
すさまじく歪んでいても、常識で測れないくらい狂っていても。
兄は確かに、るりを愛しく思っている。
生きている時も死んでからも。
それだけは信じられる。
何故か涙が出てきた。
疎ましくても、憎み切れない。
家族というのはそういう存在なのかもしれない。
遠くで気配の変化のようなものを感じた。
るりは飛び立つように窓辺を離れ、客間を出て廊下を小走りで進んだ。
廊下の向こうにいた人が、驚いたような顔をして立ち止まる。
るりもはっとして立ち止まる。おそらく自分は今、親に置いてゆかれた幼児のような顔をしているだろうと思い、急に恥ずかしくなった。
かさばる荷物を手にしたその人は、やや痛ましそうな陰りのある瞳で、ふわりと柔らかく笑んだ。
「戻りました、神崎さん」
「お、お帰りなさい……」
もごもごと目を落としたままそう言うるりへ、結木は笑みを深めた。
「出迎えて下さってありがとうございます。正直言うて、メチャ嬉しいです」
るりは意味もなくひとつうなずき、そのままきびすを返す。走り去りたい衝動に駆られるが、さすがにそれは耐える。
うつむいたまま、一緒に廊下を進む。頬が熱くて困る。
「野崎さんに確認取ったんですけど。神事に使ってた道具類は、今でも納屋にあるそうです。元々常に幾つか、予備に置いていたそうで。必要なくなった今でも、処分するんも忍びないんで置いていたそうです」
結木はのんびりとしたいつもの口調で言う。
「だから……明日の朝。さっそくやってみるつもりです」
るりは思わず立ち止まる。結木は真顔でるりを見た。
「そう何回も試せることやないです。明日と明後日、よう出来てもその二回が精一杯でしょう。失敗する訳にいきませんけど、成功する可能性のかなり低い話です。それでも……そこに賭けるしか、神崎さん含め我々の生き延びる可能性はゼロでしょう」
るりは絶句するしかなかった。結木はふと、いつもの柔らかい笑みを浮かべた。
「明日の朝、日の出の頃に神事に向かいます。メッチャ朝早いからどうしてもとは言いませんけど、もし良かったら離れで見送って下さいませんか?」
るりはしっかりとうなずいた。
「はい。明日の早朝、そちらでお見送りさせていただきます」
ありがとうございます、と彼は、照れたようにかすかに笑い、言った。




