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7 主のテリトリー②

 朝食後、るりは結木と連れ立って屋敷を出た。

 玄関を一歩出ると、辺りに満ちているのは独特の清々しい空気。思わず深呼吸してしまう。

「野崎邸の庭は特別ですよね?」

 結木はほほ笑んで言う。

「かつてほどやありませんけど、やっぱり心が洗われるような空気です。そもそも、この敷地にある泉の周りは何百年も手付かずのままですから、神域としてだけやなくて一種のビオトープとしても価値が高いんですよ。野崎さんはここを、ご自身の死後は市か府で管理してもらえるように話をつけてるそうです。そもそもコレだけのものを個人で管理するには大変すぎますし、野崎さんには跡を継げるお子さんや近しい親戚もないんやそうです。従兄弟さんとかはいてはるみたいですけど、まあ、泉の価値もビオトープの価値も関係ない、この土地売っぱらって儲けたい俗物ばっかりやとボヤいてはりました」

 生臭い話だが、結木が話すと妙にほほ笑ましく聞こえる。

 あるいは、地方の名士と呼ばれる家にはこの程度のごたごたなど、本気で『ほほ笑ましい』レベルなのかもしれない。


 通用口を抜けて町へ出る。

 辺りには生垣を巡らせた古風な日本家屋が多い。

 上品な町だなと思っていると、角をひとつ曲がった途端、いきなりコンビニエンスストアの派手な看板や自販機、単身者用の賃貸マンションや家内工業的な小さな工場が無秩序に乱立しているのが見え、るりは本気でぎょっとした。

「こっちの方が今の、現実的な小波ですね。野崎邸周辺だけが異空間なんですよ。ボクは元々、コッチ側で暮らしてた余所者(よそモン)の貧乏人のこせがれです。ですから野崎さんみたいな方に丁重にもてなされると、尻がこそばゆいと言いますか。何年たってもアレには慣れませんねえ」

 中二からあの態度で接されてるんですよ、さすがにあきらめましたけど、と、彼は困ったような顔をする。

 ほほ笑みながら彼の言葉へ相槌を打っていたが、実はるりには別のものも感じられた。

 彼の言う『現実的な小波』にも草や木はある。

 路傍の片隅に生えているエノコログサやスズメノテッポウ、花壇のパンジーや薔薇、そして植木のあれこれから、柔らかな波動のようなものを感じるのだ。

 その波動には、道を行く結木……己れの主への敬意が感じられる。

 結木にどれだけの自覚があるのかはわからないが、彼らは皆、結木を慕い、敬っている。

 ここは結木……オナミのクサのツカサという(ぬし)の、テリトリーなのだ。

 そしてそれはとてもあたたかくてほほ笑ましいことだと、相槌を打ちながらるりは思った。


 結木の母校・府立津田高校に着いた。

 彼は学生時代から、ここの樹木の世話をしながら研究サンプルとして観察させてもらっているのだと言った。

「先にちょっと職員室の方へ挨拶してきます。すぐ戻りますから、ちょっと待ってていただけますか?」

 正門を入ったばかりの桜並木でるりは待つことにした。

 建物の中へ消える結木を見送り、桜の木陰に入る。

 時期的にそろそろ陽射しがきつくなってきた。少し暑い。この時期の桜には毛虫がついているので、不用意に桜の木の下に入るのは危険もあるが、直射日光の下にいるのはさすがに辛い。

【あの……】

 並木の桜たちから、明確な意思が伝わってくる。

【不躾ながらお声をかけさせていただきます。もしかして貴女様は、神鏡の巫女姫でいらっしゃいませんか?】

 少し逡巡したが、小さな声でるりは答えた。

「はい。そう呼ばれている、立場の者です」

 おお、とでもいうざわめきが響く。

【やはり。お初にお目にかかります】

【かのお血筋は絶えてしまわれたかもしれないと聞きましたが。東の果てに逃げて行かれたと聞き及んでおります。よくぞご無事で】

【畿内は元々、巫女姫の故郷。お帰りなさいませ】

 ざわめく波動を制したのは、並木の中で一番幹の太い桜だった。

【嬉しくてつい、はしゃいでしまったのをお許し下さい。言い伝えでしか知らない神鏡の巫女姫にお会いできて、皆、上ずってしまっているのです】

「いえ……」

 答えながら、何故皆これほどまでに『神鏡の巫女姫』を有り難がるのか、るりには不可解でならなかった。

【神鏡の巫女姫は神に近い方。神に近付ける方だからです】

 るりの疑問を察したのか、桜は言う。

【我らのツカサと同等の方なのです】

 ようやく少し腑に落ちた。

 自分が結木と同等とは思えないが、彼らにとっては同等なのだ。

 敬うのが当然の存在なのだ。

 自分が本当にそれだけの存在かどうか大いに疑問だが、少なくとも彼らにとっては『そう』なのだ。

 そこでふと、疑問が浮かんだ。

「あの。少しお伺いしたいのですが」

 桜たちから期待のこもった波動が伝わってくる。

「こちらの木霊は皆さん、ヒトの姿を取れるのでしょうか?もしそうなら、桜の皆さんの姿を見せていただくとか、可能……なのでしょうか?」

 言って、厚かましすぎただろうかとるりは焦った。

 しかし桜たちから困惑や迷惑を感じている波動はなかった。

 どちらかと言えば、笑いさざめくような楽し気な波動が伝わってくる。

【義昭の楠や大和棕櫚にお会いになられたのですね】

【あの方々は小波の特別なのです】

【樹木でありながら、樹木の限界を自らの意志で越えられた方々なのです】

【こちらの敷地にいらっしゃるアケボノスギ……メタセコイヤの大樹もそうなのですよ】

【あ、ツカサがお戻りです】

【後はツカサとメタセコイヤさまにお聞きになって下さいませ】

「お待たせしました、神崎さん」

 結木はふわりと笑んでそう言い、桜たちにも目礼した。

「桜さんたちと、話が弾んではったようですね」

 あの方たちは人懐っこいですからね、と、友人の噂話でもするように言って、彼は笑った。


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