7 主のテリトリー①
目覚めた時にはすでにかなり明るかった。おそらく八時は回っているのではないだろうか?布団の中ではっとする。
見慣れない天井に一瞬戸惑い、ようやく自分が今、小波の野崎邸で世話になっているのをるりは思い出す。
ずいぶん寝坊をしてしまったが、今更焦っても悔やんでも仕方がない。今は客だと開き直るしかなかろう。
ゆっくりと身を起こす。ひとりで寝ていたら心細いような広い客間でるりは、昨夜、やすませてもらった。
ナンフウが消えてすぐ、野崎夫妻は戻って来た。
ナンフウが来てから去るまでの時間はわずか5~6分ほどだったのだと、それとなく時計を確認してるりは驚く。
「おや、かなり息遣いが楽になられましたね。ようやく薬が効いてきたのでしょう」
野崎氏がほっとしたように笑い、るりのそばに座る。
「神崎さん」
夫人がるりへ話しかけてきた。
「草仁さんがご心配でしょう?草仁さんからは、神崎さんは客間の方を使っていただくようにとお願いされていますが、こちらへ床をのべさせていただきましょうか?」
思いがけないことを言われ、るりはポカンとする。
「この部屋にもう一組、のべようとすれば夜具をのべられますし、隣の部屋は所謂ダイニングキッチンですけど、カーペットを敷いてますからそちらで夜具をのべられなくもないですし……」
「あ、いいえ。客間の方へ移ります!」
るりは慌てて夫人にそう言った。
この二人はるりを、結木の婚約者か婚約者に準ずるような恋人、だと思っているらしい。少なくとも、ほんの数日前に出会ったほぼ他人だとは思っていないだろう。
夫人は小首をかしげたが、有り難いことにそれ以上推してはこなかった。
「わかりました。では客間の方へ」
着替え、夜具を畳んで部屋の隅に片付ける。
様子を見に来た夫人に訊いて洗面所へ行き、洗顔や軽い化粧を済ませる。
結木はもう起きていると夫人から聞いたので、離れの方へ向かう。
「おはようございます、結木さん」
離れの扉へ合図し、声をかける。どうぞ、という穏やかな声が聞こえたので、るりは失礼しますと言いながら扉を開けた。
結木はすでに床を上げていた。
それだけでなく、淡いクリーム色のカッターシャツに臙脂のネクタイ、柔らかい茶色のビジネススラックスという出勤前のような服装だったので、驚いた。
「おはようございます、神崎さん。昨夜は眠れましたか?」
結木は、昨夜熱を出して苦しんでいたとも思えないくらい清々しい表情をしていた。
「あ、はい。お陰様で。あの……今からお仕事ですか?」
いくら何でも昨日の今日だ、仕事へ行くのは無茶でないかとるりは思った。
確かに顔色は悪くないし、眉の上の傷も赤い線が少し残っているが、昨日とは比べ物にならないくらい薄れている。無理をすれば仕事も出来なくなかろうが……やはり無茶だとしか思えない。
半ば偶然で、今のところアレの活動を抑えてはいる。が、いつ何時動きだすのか、るりにさえわからない状態なのだから、彼はしばらくここでじっとしている方が良いに決まっている。
しかし『ほぼ他人』のるりがそこまで言うのも、もしかすると僭越かもしれない。
「ああいえ。さすがに仕事の方はしばらく休むように、昨日のうちに連絡してます。情けない話ですけどボクは元々、あんまり丈夫な方やないんですよ。実は院生時代、ちょっと無理したんが原因で半月ほど入院する羽目になったことがありましてね。教授はそれをご存知ですから、結木なら5~6年に一回くらいは寝込みよるやろうとあきらめてはるでしょう」
そんなことを言って結木は笑う。
「ほんならこの格好はナンやねん、ですけど。朝めしの後にでも、野暮用かねて母校の方へ顔出さんとあかんのです。この近くにある高校ですんで歩いて行くつもりですけど、散歩がてら神崎さんも一緒に行きませんか?あそこには親しい木霊がいましてね、今回、手助けしてもらうつもりなんです。それを頼みに行こうかと思ってましてね」
彼はクソ生意気な誰かさんと違て、かなり可愛らしい美少年タイプの木霊のはずですよ。
そんなことを言う結木の瞳には、少し寂しそうな陰りが見える。見たくても見えない『彼』を懐かしんでいるのだろう。
るりは笑みを作って答えた。
「そうですね。ご一緒させていただきます」
野崎夫人に、神崎さんもこちらで一緒に朝食を召し上がりますかと問われたので、そうするようお願いする。
ダイニングに、なめらかな白木で作られたちょっと洒落た感じのちゃぶ台が据えられ、旅館の朝食のような和食が並ぶ。
夫人が、小さめのお櫃に入ったご飯と小鍋に入った味噌汁をちゃぶ台に置くと、結木は
「後は適当にしますから」
と言って夫人に戻ってもらった。
結木が慣れた手つきで茶碗にご飯をよそってくれるので、るりは味噌汁をお椀につぐ。
ほぼ他人の自分たちが当たり前のように向かい合い、朝食を食べるという不思議に、るりは、それこそ夢を見ているような気分だった。
それでいて、こうしていて向かい合って朝食を食べていてまったく違和感がないのも、ものすごく不思議な感じだ。
運命の人、という存在はこういう存在かもしれないとふと思い付き、るりは思わず赤くなる。
ごまかすようにうつむき、だしの利いた豆腐とわかめの味噌汁を静かに飲んだ。




