6 戦闘開始⑧
闇。
完全な闇、というものがあるのだとしたら、こういう状態ではないかとるりはぼんやり思う。
腕を伸ばす。肩を回してみる。脚を曲げ伸ばしする。
でも実感がわかない。
どこまでが自分でどこからが自分でないのかが、ひどく曖昧なのだ。
見えない、というだけでこれほど心細いのかと思う。
(死んでるみたい……)
ふと思い、ぞくっとする。
「夜は暗黒の闇にあらず……」
知らず知らずのうちにるりは、言葉を紡いでいた。
遠い昔に教わった言葉だ。
とてもとても大切だから、忘れないようにと言い聞かされながら。
「夜は暗黒の闇にあらず。内にやわらかな光を抱く、瑠璃色こそが夜の闇。安らぎを生む優しき闇が我が本性なり」
そう願って名付けたのだよ。
両親がほほ笑みながら、るりにそう教えてくれた……。
「我が真名は神崎るり。瑠璃色の夜の闇なり!」
夢の中は思いがすべて。
夜と夢を司る、月の神を氏神に持つるりの血筋は、その『思い』を操る力が桁外れである。
言霊に引き寄せられるように、死を思わせる暗黒はゆるやかに明るんでゆく。
遥か向こうに何かが見え始めた。
胎児のように身体を丸めた、黒いブレザーとスラックスの少年。結木だ。
るりは慌ててそちらへ駆ける。
「結木さん!」
少年はぎゅっと目を閉じ、両腕で頭をかばっている。ヒュンヒュンと風切り音を立て、彼の周囲で何かが飛び交っている。
【死ね!】
【天使に手を出すなんて!】
【馬鹿!馬鹿!】
「うるさい!」
腕の隙間から少しだけ顔を出し、結木である少年は叫ぶ。
「ブンブンブンブン飛び回りやがって!お前はハエか!」
最後の言葉を言ったのと同時に、『ハエ』と罵られたナニカが襲いかかる。背中や頭を打つ複数の鈍い音がする。思わず結木はうめき声を上げた。
「結木さん!結木さんこれは夢です、夢なんです!痛みもすべて幻です!」
駆けながらるりは叫ぶ。結木がはっとしたようにこちらを見た。
その刹那、るりを追い越して緑色のつむじ風が結木へと向かう。
「よう。待たせたなァ、そーじん。エラい若作りでヒくやんけ。三十面さげたおっさんが高校生のコスプレか?セーラー服着たおばはんみたいやぞ」
丸まっている結木の前へ、あやしげなナニカから守るようにナンフウが現れた。驚いて目を見張り、結木は、転びそうになりながらも立ち上がる。
「あ?え?……な、なん、ふう?お前、ちょっと成長してへんか?」
立ち上がった結木は、今とほとんど変わらない年齢に戻っていた。黒のブレザーとスラックスはいつの間にか、紺色のスーツに変わっている。
ナンフウは軽く顔をしかめた。
「あのなあ。俺かて生きてるんやぞ。さっき巫女姫のねーさんも言うとったやろうが、二十歳前くらいって。いつまでもお前が知ってる、中坊のビジュアルのままな訳ないやろうが」
あははは、と結木は急に笑い出した。
「いや、そりゃそうか、そうやな。しゃべってる内容が昔と全然変われへんから、俺の中ではお前は中坊のまんまやったワ。そうやな、お前も生きてるもんなあ、悪い悪い……」
「お前、全然悪いと思てへんやろ」
かけ合い漫才をやっている二人の周りを、苛立ったような風切り音がかすめるように飛び回る。
「あー、おしゃべりは後や。このチョロチョロしてるの、さっさと片付けよか」
ナンフウは真顔になり、軽く右腕を伸ばした。
「ほらそこ!そこと、ここ!」
瞬くうちに彼は、飛び回る『ハエ』たちを素手で捕まえた。
「お、おいおい!素手でつかんで大丈夫なんか?」
怨霊の眷属の呪いやねんぞ、と、驚いて問う結木へ、ナンフウは不敵にニヤッと笑って見せた。
「心配すんな。虫にはフィトンチッドがよう効くもんや。怨霊がらみやろうがなんやろうが、虫は虫や。これでも俺は木霊やぞ。それも、一応は市の天然記念物に指定されよかっちゅう大和棕櫚様や。大楠先生から見たらハナタレ小僧やけど、小波ではソコソコ長老やねんぞ。虫になんか負けるかい」
まあ見てみい、と、手の中に押し込められてギチギチと怒った蝉のような声を上げている『ハエ』へ、ナンフウは軽く力を込めた。
淡い緑の光が彼のてのひらからあふれ出た途端、『ハエ』はあっけなく消えてしまった。
「ほい、おしまい。なんや、思ったより根性ないやっちゃな。助っ人に来るまでもなかったか?」
「いや、そんなことない。ありがとう」
真顔で礼を言って頭を下げる結木へ、ナンフウは少し赤面する。
「な、なんやねん。マジな顔して礼なんか言うなや。照れるやんけ」
こんなん礼言うほどのモンやないで、ともぞもぞ言った後、ナンフウは結木の肩を思い切り叩く。
「礼はあのねーさんに言えや」
ほれ、と、ナンフウはるりを指差す。結木はそこで、改めてるりに気付いたらしい。彼はふわりといつもの笑みを浮かべ、目礼をした後ありがとうと言った。
そこでるりは、ふと我に返った。
野崎邸の離れだ。
結木は気持ちよさそうな寝息を立てて、ぐっすり眠っていた。
「ねーさん」
声に、目を上げる。ナンフウだ。
「ありがとう、お陰でコイツの夢の中へ行けた」
心底ほっとした顔で彼は笑んでいた。
「やっぱりねーさんは大したモンやで。もっと自信持ちや」
そう言うと彼は、ふらりと立ち上がった。
「言うとくけど、俺は滅多に他人を褒めへんねんで。その俺が褒めるねんから間違いない、あんたはホンマモンや」
じゃあまたな、と言い残し、彼は消えた。
彼が座っていたところには、5㎝程の、繊維の多い細い葉の切れ端……らしいものが落ちていた。




