6 戦闘開始②
【……カサ!ツカサ!オナミのクサのツカサ!】
急き込んだような気配と、声でない声。大松だ。
結木ははっと背を伸ばし、松を見上げた。
「ああ松の木さん。朝からスミマセン、どエラい騒ぎを起こしてしまいました」
【いいえ。こちらこそお守りできずに申し訳ありません。月の御剣の霊力に、一時的に押さえつけられていました】
ならず者が他人の家へ乱入し、住人を押さえつけて暴れる……ような感じだろうかとるりは思う。おそらくそんな感じだ、なんとなくわかる。
結木は顔を曇らせた。
「それは……申し訳ないことに巻き込んでしまいました」
【何よりはまず、止血をいたしましょう。一時しのぎにしかなりませんが、松脂の力をお貸しいたします】
不意に強烈な松脂のにおいが辺りに立ち込め、すぐ消えた。
結木はそろそろと、血で重くなったハンドタオルを額から外した。左眉の上に5cmほどの鮮やかな赤い線があったが、出血はしていないようだった。
「ああ、すごいですね。血が止まっただけやなく、痛みも引きました。ありがとうございます、何から何までお世話になってしまいました」
ほっとしたように笑う結木へ、松は暗い声で答える。
【とんでもないことです。それに、松脂の力は一日も保たないでしょう。出来るだけ早く小波へお帰りになられ、傷を癒して下さい。呪いの霊力が込められた傷です、甘くみてはなりません】
結木は居住まいを正し、松へ頭を下げた。
「ご忠告を肝に銘じます。しかし月の御剣やその眷属が、土地の大樹のエリアへずかずか入り込んでくるとはボクも思っていませんでした。認識が甘かったです、お許し下さい」
【いいえ。いくらうつつ心を失くしていても、普通なら御剣もここまで無体なふるまいはなさいませんでしょう。おそらく……月の巫女姫の貞操を奪われると】
「て、ていそ……!」
「そんな訳……!」
るりと結木が同時に言う。
そういえば柴田は『さかりのついたけだもの』という表現をしていた。
「あのう……」
結木は額の傷を気にしながら、少し頬を染めた。
「『お付き合いして下さい。はい。』だけで、そんな話に、なるんでしょうか?ヘンな言い方かもしれませんけど、それこそ手ェひとつろくに握ってませんよ?」
【人間の皆さんの『貞操』の概念をどう判断していいのかまでは、我々にはわかりません】
松が考えながら言う。
【しかし広い意味での『よばい』なら、成立していますね?】
「あ……ああ求婚とか言い寄るとか、そっちの意味ですね?」
慌てたように結木は言葉を継ぐ。そしてるりを一瞬チラッと見、目をそらした。狭い意味での『よばい』を連想されたくないのだろう。
『求婚』もかなりのパワーワードなのだが、結木は気付いていないらしい。なんだか顔が熱くなる。
【巫女姫の命や貞操の危機なら、御剣が何が何でも来るのは当然です。問題は一般的にはどうかではなく、御剣が『どう解釈したか』です。ツカサは確実に、御剣の敵になってしまわれましたね】
結木は苦笑いする。
「まあそれは、最初からあきらめてるというか覚悟してますけど。そやけど今後はなりふり構わんとぶっ殺しに来はる、と。……いよいよ崖っぷちですね」
【唯一の救いは、巫女姫が月の鏡として月の剣の眷属に命じた、ことでしょうね】
意外なことを言われ、るりは松を見上げる。
【月の鏡として『今後許しもなく、私に近寄るな』とお命じになられた。本気の怒りを込めた巫女姫の言霊です、直接言われたのは眷属ですが、御剣すら一定の時間、縛るだけの強さはありましょう】
「え?そう……なのですか?」
茫然とるりは問う。
【ですからこの隙に、出来るだけ早く、小波にお帰りになって下さい】
「ありがとうございます。今日の午前中で仕事は終わる予定ですから、それからすぐに戻る予定です」
結木が言うと、松からホッとしたような気配がただよった。そしてかすかに逡巡すると、
【その時には、何卒巫女姫も小波へお連れ下さいませ】
と言ったのには、るりだけではなく結木も驚いた。
「え?いやその、近いうちには来ていただくつもりにしてましたけど」
と戸惑ったように言う結木へ、松からかぶりを振るような気配が伝わってくる。
【近いうち、では間に合わない可能性があります。巫女姫を『守る』究極の手段として、御剣が鏡を割ることが……一そろいの鏡と剣で一度だけ、許されているという話を伝え聞いております】
え?と問う二人へ、松は
【今の御剣は、単にうつつ心を失っているという状態ではありません。大切な巫女姫の貞操を奪う男が現れた上、巫女姫自身も『よばい』に色よい応えをしたのです。御剣は巫女姫のお命を奪ってでも、貞操を守ろうとするでしょう】
淡々と恐ろしいことを言った。言葉を失くしている二人へ、松は更に続ける。
【ツカサ、何卒巫女姫を守って差し上げて下さいませ。ツカサとお会いして以来、巫女姫の霊力が明るく輝くようになりました。この方を支えるのは、うつつ心を失った病んだ御剣ではないと感じます】
そして松は、柔らかな気配をるりへ向けた。
【巫女姫。我々は貴女様がこの公園に来られてから、とてもよくしていただきました。陰ひなたなく世話をしていただき、とても感謝しております。貴女様に幸せになっていただきたいと……我々は皆、思っております】
「……わかりました」
結木が低い、芯に力のある声で答えた。
「ボクが甘かったのがよくわかりました。こっち側だけやなくて神崎さん……巫女姫にまで手を出すくらい、あのお方が狂ってるんやったら。四の五の言うてる場合やないでしょう」
結木はるりを強い目で見た。
顔にうっすらと血の汚れが残る、左眉に傷のある彼には不思議な魅力があった。
片角を少し欠けさせた、歴戦の勇者である主の大鹿の貫禄だろうか。
「小波に来て下さい、神崎さん。ボクと木霊たちが、かならず貴女をお守りしますから」




