6 戦闘開始①
不意に冷たい風が吹いた。
雲がかかったのか、辺りがふっと薄暗くなる。
背筋がぞくっとした。
【るりちゃん……】
隙間風にも似た、声でない声がるりを呼ぶ。
【るりちゃん、ひどいよ。君は、おにいさんのことは顔見ただけで悲鳴を上げて逃げちゃうのに、そうやって、よそのおにいさんにはいい顔をするんだね。妬けちゃうな……】
おぞましい気配が急に濃くなる。るりは鋭くそちらを向いた。
黒っぽいものが2mほど先の地面にわだかまっていた。当然、ついさっきまでそこにそんな奇妙なものはなかった。
黒っぽいものはふるふると身を震わせた後、半身を持ち上げるような仕草で頭らしき部分を上げてこちらを向いた。るりは息を止めた。るりの後ろで、結木がひゅっと息を呑んだ音が聞こえた。
柴田、だ。
柴田、だと思う。
陥没するような形で左側の頭が割れて血と脳漿があふれ出ているし、左の眼窩から眼玉がこぼれ落ちているが、在りし日の面影がなくはないし、何より気配に『柴田』を感じる。
「し、ばた……さん?」
茫然とるりが名を呼ぶと、柴田らしい化け物はにやあと笑った。ごぶりと小さな音を立てて、口から血があふれ出る。
【覚えていてくれたんだ、嬉しいな……】
いざり寄ってくるおぞましい化け物から守るように、結木が寝袋から抜け出してるりの前に出て来る。
「こら、近付くな!大体ここは大松さまのエリアやぞ。勝手に入ってくるのは大松さまに対して失礼や!」
【うるさいなあ】
疎ましそうに化け物はうめく。
【その大松さまのエリアで僕の天使にちょっかいをかける、お前はどうなのさ、このさかりのついたけだものめ。天使というのは、ただ見つめているだけでいい存在なんだよ。『お付き合い』だなんて……不潔だよ!】
『不潔だよ!』と同時にシュッという鋭い風切り音がした。結木が慌てて両腕で顔をかばうが、間に合わない。彼が上体をのけ反らせたのと同時に、ぱっと鮮血が散った。
「結木さん!」
悲鳴に似た声で結木を呼ぶるりへ、柴田はゆがんだ顔を更にゆがめる。
【るりちゃーん……、ひどいよひどいよ。おにいさんが苦しんでいる時には、ちっとも心配してくれなかったのにさあ……】
血泡をかみながら恨み言を言うと、にたりと柴田は笑う。
【でもこいつを殺して食い尽くしたら。るりちゃん、もっと僕を見てくれるよね……】
すさまじい寒気に震えると同時に、すさまじい怒りの熱気が身体の芯から沸き上がった。まなかいに一瞬、自分と柴田の霊的な意味での上下関係があぶり出された。
「控えろ……」
ゆらりと立ち上がり、るりは言う。
格下に侮られる冴えた怒りに、頭の芯が白い。言葉が勝手にあふれ出る。
「控えていろと命じたはずだ、剣の眷属!」
無意識のうちに両方のてのひらを柴田へ向けた。てのひらは異常に熱かった。
「己れの真の姿を知れ」
柴田はるりのてのひらを見つめ、哀れなほど情けない顔で硬直した。
「今後許しもなく、私に近寄るな!」
裂帛の気合いで叫ぶ。
細い悲鳴を長々と引きながら、柴田はみるみるうちに縮まってゆき……空気の中へ、溶けるように消えた。
陽が差す。
鳥のさえずりが不意に聞こえてきた。
すさまじいだるさに軽い眩暈がして、るりはしゃがみ込む。
「神崎さん!」
結木の声を、遠いもののように聞く。
「だい、じょうぶ、です……」
つぶやきながらのろのろと顔を上げ……ぎょっとする。
結木の顔は血だらけだった。どうやら左眉の上あたりが切れているようだった。
結木は舌打ちするような感じで顔をしかめ、傷を手で押さえた。
「やってくれますねえ、あのスプラッタさん。マジで痛いです」
その割には緊張感のない声で彼は言うと、寝袋の辺りを探ってハンドタオルを取り出し、きちんとたたみ直して傷口へ当てた。
「救急セットは持ってますけど車の中ですねえ。血が止まるまでは、しゃーないからじっとしてましょう」
言いながら彼は腰を下ろし、松の幹へもたれた。
「……すみません」
思わずるりが謝ると
「いや、神崎さんは別に悪くないでしょう。あのバイオレンスなスプラッタさんがやりはったんですから」
と、笑みの混じった声で言う。
もっとも、相変わらず緊張感のない表現をしているが、さすがに彼の目は虚ろになってきた。ハンドタオルがじわりじわりと赤くなってくる。
「あのスプラッタさん……柴田っちゅう人ですか?」
るりがうなずくと、結木は初めて険しい顔になった。
「剣の眷属。神崎さん、そう言うてはりましたね?」
うろたえながらるりはうなずく。何故と問われると困るが、るりにはそれが、自明のこととしてわかったのだ。
「多分、みんながみんな、やないでしょうけど。祟り神に殺された場合はその祟り神の眷属になって、パシリやらされるっちゅうシステムになってるみたいですね。……勘弁してくれや」
大きなため息をつきながら、結木は言った。
「パシリはウチの教授のパシリだけで沢山や。死んでからまで誰かのパシリやらされるなんて、御免こうむります」
そして再び大息をつくと、
「くっそ。景気よく血が出やがるなあ……」
と、彼はぼやいた。
ハンドタオルはすでに真っ赤だった。




