13話「魂が凍える前に」前編
結論から言おう。
少女からの要求はシンプルだった。
本日の午前一〇時、指定の場所にて待つ。
ご丁寧に移動予定ルートまでマッピングされ、ヒフミの端末に転送してくる始末。
塚原ヒフミが早々にセーフハウスから立ち去り、UHMA本部へ要求を伝えたのが一二〇分前。
真夜中にたたき起こされた補佐官、高辻馳馬は不機嫌だったが、事態を聞くにつれて真剣そのものになり、バックアップ体制を猛烈な速度で立ち上げた。
要するに一大事であった。
導由峻を保護しているマンションの一室はもぬけの殻、警護と監視、双方の視点からチームの責任を問われる事態に発展。
しかしそもそも、相手が悪すぎるというのが超人災害対策部の共通見解だったこともあり、責任問題を棚上げされた――何せ、相手の指定したタイムリミットまで時間がない。
当事者であるヒフミが立案した作戦は早々に了承された。
軍用無人機や外骨格を運用する実働部隊――強襲制圧班の待機、および市街戦に備えた交通規制の申請まで行われ始めている。
暴走したサイキックやマイソロジストとの交戦経験の豊富さから、ここまでの手続きの問題はなかった。
深夜から朝方まで詰めている人員は、皆、ヒフミと少女の微妙な関係を知っている。
だから同情とも非難ともつかない視線を投げかけてくるものもいたが、おおむね、危機感を持った対応だった。
しかし作業を追えてから、青年は気付いてしまった。
「……これ、デートコースじゃないですよね」
誰も否定できなかった。
それでいて脅威度は何も変わっていなかった。
笑うべきなのに泣きたくなるような状況だったが、相手の意図に沿うため、帰宅と着替えが許されたのがつい先ほど。
現在、ヒフミは車中の人である。
通信で打ち合わせの仕上げを行う――仮眠前の補佐官が対応。
大方の確認が終わってから、馳馬は身も蓋もない指摘をしてきた。
『打ち合わせもいいが、この会話が盗聴されてる可能性もあるぞ』
「もし彼女が〈異形体〉の力を引き出していたら対策のしようがない。だから出来ることだけする」
特に重要度の高い案件のとき、UHMAでは量子通信が用いられている。
量子テレポーテーションを利用することで、タイムラグと盗聴の危険に対し、大きな効果を上げている通信方法だ。
二一世紀中の文明崩壊〈ダウンフォール〉の爪痕や、復興時期の差異もあって普及していない技術体系だが、軍事利用は盛んに行われている。
だが、現在の地球科学では理解出来ない現象を引き起こす異種起源テクノロジー――結晶細胞の前では、どの程度、セキュリティを保てるかは怪しかった。
『開き直りか。装備は指定ポイントに送っておく』
「助かる」
礼を言って自宅への帰路を急ぐ。
UHMAの自動運転車で走る間、馳馬との打ち合わせを続けていたのだ。
車窓から見える景色は、薄明るい朝日の色。
冬の寒さで凍結した道路、屋根に積もった薄い雪。
土と混じり汚れた路面の雪が、凍結して茶色い氷になっていた。
空ヶ島の地表部は、巨大な学術都市としての側面と、商業の中心地としての側面に二分されている。
開発が抑えられた地域には、野山や史跡のような観光資源を保護している地区もある。
計画的に開発されたために、驚くほどくっきりと区画ごとに棲み分けの行われている都市なのだ。
寒々しい朝靄に包まれた街並みに、早くも人影が見受けられた。
種族も生業も、建造物の形すら違う街が、冬という景色に飲み込まれ、茫漠たる灰色に染まっていた。
すでに時間帯は明朝だ。
睡眠の必要がないヒフミとはいえ、身繕いの時間は取らねばならないし、同居人の世話もある。
ホームヘルパー任せでは、保護者としての責任を果たしているとは言えまい。ただでさえ不規則な出張が多い分、ヒフミはアクサナに対して親身になろうとしていた。
おそらく自分の少年時代、父母に求めていた庇護を形にしようとしているのだ。
ふと、馳馬が話題を変えた。
『一つ面白いネタを仕入れてな。支援AI様様って奴だが、聞いていけ』
「なるべく面白い話を頼むよ」
さてな、と返答。
資料となるデータが送られてきた。
端末の画面ではなく、コンタクトレンズ型の小型端末――つまり拡張現実として映像化。
受像したのは、ヒフミにも見覚えがある人型である。
身長三メートル弱の鎧武者、先に交戦したばかりの日本製軍用外骨格だった。
『三三式空挺外骨格――日本軍が配備し始めた最新鋭エクソスケルトンだ。言うまでもないと思うが、お前さんが生身で膝関節ぶっ壊した機体だ』
「刀身が駄目になったうえ、僕の躰はボロボロにされましたけどね」
『ま、治安維持用の軽装だったからな。軍の正式採用型ならもっと厄介だったろうさ』
怪訝そうなヒフミに構わず、話を続ける馳馬。
古巣と揉めてUHMAに再就職した割りに、兵器のことは嫌いではないらしい。
『装甲の大幅な軽量化、人工筋肉の高出力化、制御システムの効率化……センサー類の小型化も図られてるが、こいつの一番のミソは慣性制御装置だな。どれだけ無茶な動きをしても、中の人間を気にせずにいられる……要するに、スペックマニアのオタクどもが喜びそうな代物だ。すごい、つよい、はやい』
突如として饒舌になる馳馬――こいつひょっとして戦車のスペック見て興奮する人種か、と脳裏をよぎる疑念。
「元軍人ってみんなミリタリーマニアなのか」
『勉強できる方だったからな……まあ、どこもかしこも革新的新技術とやらで別物なんだよ。この革新の中身が問題だ』
馳馬はそういって、別のデータを送ってくる。
表示を切り替える。
こちらも軍用外骨格――比較的メディアにも露出している機種だった。
カブトムシを思わせる重厚な装甲に、二対四本の大型マニピュレータを持つ異形の人型。
戦闘用の外骨格としては平均的な、三〇〇センチの背丈を持つ機械仕掛けの鎧だ。
『日本が三三式以前に開発した軍用外骨格は、この二四式装甲外骨格だ。UHMAの強襲制圧班でも運用してる。堅実でいい作りの機体なんだが……三三式と比べたら骨董品になるかもな。一〇年の技術開発があったとしても、こんな進歩はあり得ないんだよ。人連が把握してる限り、三三式に繋がるような技術革新は国内になかった』
なるほど、スペック解説やら動作機構を交えた比較検討――マニア以外には退屈――はしないらしい。
流石に配慮してるな、と妙なところで感心する。
そこで、はたとヒフミは気付いた。
今この時期に、この話題を持ち出す理由は一つしかなかった。
「三三式の開発時期に、導由峻は日本側で軟禁生活を送っていましたよね」
『知っての通り。彼女の母親が亡くなり、賢角人の習性――ハイヴネットワークでその遺産を受け取った後の時期だ』
「その技術的なブレイクスルーに、あの娘が協力していた?」
そういえば二ヶ月前、由峻もそんなことを言っていた気がする。
『導由峻の母親は、賢角人の長老だった。だが彼女が死去して権力の空白が生まれ、後釜によって娘は日本政府に売られた――母親の全情報を受け取った宝の山だ。色々と揉めたらしいが、最終的に導由峻は学生生活を手に入れた……軟禁下で取引の材料があるとすれば、ってな』
「その条件が技術協力ですか。異種起源テクノロジーのリバースエンジニアリングに、あの子を使っていたと推測できる、と?」
楽しげに口元が歪む。
ヒフミの悪癖、天の邪鬼な表情筋だった。
心の働きとあべこべに動くよう訓練された顔。
素直すぎる感性は、一〇代のときに捨てようと決めた。
けれど現実の彼は、大人になっても怒りや悲しみに直面し続けている。
鈍感になれば、本物の怪物になってしまいそうだった。
こうして胸の痛みを感じるたび、身につけた知性や思想が青年の感情を抑えつける。
どうにもならないとわかっているのに、身近な人間に襲いかかる理不尽が許せなかった。
『リバースエンジニアリングなんて感心できるもんじゃない。現物を分解して、構造や設計を分析するような殊勝さがあればよかったんだがな。いいか、賢角人シルシュは異種起源テクノロジーを人類に伝えた当事者だ。エイリアンの超科学を、猿にでも使えるよう調整してばらまいたんだ。マニュアルを作った張本人の頭の中身が、使いやすそうな子供の頭に入ってるんだぞ――答案が転がってるのに、馬鹿正直に面倒な宿題を解くか?』
「何十年か先の技術を実用化できるまで、馬鹿にでもわかる手引き書と方法論を引き出した? 一〇代の女の子を脅してですか」
『開き直ればそんなもんだ』
おそらく、さぞや不快なやりとりを経た『協力』だったに違いない。
そういえば、と思い出す。
人類連合に引き渡される前、由峻は一つの悪行へ手を染めたという。
外部の人間をつぶし合わせ、その混乱と流血によって自由を得る選択肢を選んだのだと。
その切羽詰まった理由が、目の前に示されていた。
ヒフミには少女の心の変遷などわからない。
彼女へ〈結線〉を使えば情報を引き出せたかもしれないが、それをしないのが彼の引いた倫理の一線だった。
だから今さら、ろくでもない裏を知る羽目になっている。
「人連との協力が……亜人との共生が生命線なのに、こんな馬鹿なことがまかり通ったのか。流出した異種起源テクノロジーは、人連が管理してる先進技術のはずだ。露見したらペナルティがあることぐらいわかるでしょう」
『お前さんは、人連の視点に寄りすぎてるんだよ。理屈の上では、異種起源テクノロジーの管理が正しいかもしれない。――それがどうした?』
ヒフミは絶句した。
彼は多感な時期に本土を離れ、人連の北日本居住区へ移り住んでいる。
ゆえに教育的にも、文化的にも、人連のコントロール下にある文物の影響が強いのだ。
対策官として公平な視点を心がけていても、素朴な感性の部分はそう簡単に変えられない。
高辻馳馬は違う。
彼はUHMAへ転職するまで、日本軍に務めていた。
どこまでもドライで、酷薄な物言いがこの男の持ち味だった。
『〈異形体〉は神様みたいに強大かもしれない。それでも、人間の集まりは実在する神様を信じられないんだ。パワーゲームへの参加チケットがあるなら、出来るだけ強くなろうとする。たしかに、人間と亜人は混血して結びつきを強めた。行政府には亜人が食い込んでる……それだけだ。一〇〇年足らずの時間じゃ、前世紀に殺し合った相手を信頼するには時間が足りないんだよ』
ましてや人類連合の根拠地の一つがおかれたことで、追い詰められているのは日本側なのだ。
優秀な人材も資本も、人類連合の側に際限なく流出していくからだ。
人連と距離のある諸外国なら、自国のための技術開発を行う必要がある。
だが政治的にも地理的にも、人連と近すぎる国家は、その独立すら危うい状況へ陥っていた。
経済的繁栄や復興速度の早さと引き替えに、人連――異種族を頂点とするシステム――への依存は歯止めが利かなくなっている。
それを新たな社会システムとして受け入れるか、自分たちの生存が脅かされていると取るかで、この世界へ抱く感想は一八〇度変わるのだ。
生きるか死ぬかの瀬戸際から脱し、未来を考える余裕があるからこそ、静かに進行する侵略への恐怖は根深い。
『ま、話を戻すが。そういう面倒な経緯の末、賢角人の中でも資産家や権力者が内輪もめを始めてる。その余波が、俺たちが巻き込まれてる嬉しくない騒ぎなのかもな……で、だ。師匠筋に賢角人がいるお前さんに聞いておきたい。仮に連中がなりふり構わずしかけるとしたら、今日、この街で起こると思うか?』
ヒフミの先生、イオナ=イノウエは古参の長老であり、亜人種全体の中でも発言力の高い重鎮である。
長らく親元を離れている青年にとって、保護者のようなものだったし、今現在でもその庇護はあった。
強力なサイキックとは、不安定な生き方を強要される生き物だ。
その存在自体が危険なために、生存権や安全性を担保するものがなければ平穏に過ごすことは難しい。
UHMAは超人の軍事利用を抑制するため、積極的に保護に取り組んでいるが、一方で抑止力として子飼いにしている。
まかりなりにもヒフミが、二〇代の若さで安定した足場を築けたのは、イオナの援助あってこそだった。
そういう親しい間柄だけに、生臭い事情も心得ている。
――亜人資本大手の最高経営責任者ラシャヴェク=エリュジオ、空中人工島管理者ヴァルタン=バベシュ、人類連合理事会特別顧問イオナ=イノウエ、人類連合調停局局長ムートガウラ=タカチホ。
十分な情報網と資金力を持ち、導由峻やその母シルシュと関わりのあった長老。
彼の知る限り、怪しい人物はこれだけいる。
少なくとも由峻にちょっかいをかけることで、何らかの利益を得ると考える場合であって、個人的怨恨となるとお手上げだが、あとは警察組織なり諜報組織の領分だ。
とはいえ、うち二人は実質的な庇護者と職場の上司だった。頭を抱えたくなる話だ。
「……無人戦車の騒ぎがその関係だとするなら。敵は手段を選ばないだろうし、末端の兵隊を使い捨てにする。市民の被害は気にかけないはずです。後先のことを考えないなら、二台目の戦車を投入してきてもおかしくない。一台目の存在を察知できなかった以上、二度目もあるかもしれないからね」
『それで、対戦車装備の外骨格を待機させたわけだ』
「ああ。相手が人間なら僕で十分だ。人間爆弾だけは怖いけど」
会話が一段落したところで、見覚えのある通りになってきた。
UHMAエージェントであるヒフミは待ち伏せを防ぐため、毎回、帰宅ルートを変えている。
見覚えのある景色は、局の警備網によって安全が確保されているエリアだった。
「それじゃ、僕はこれで。馳馬、君も仮眠しておいてくれよ」
『ああ、お前さんも休めよ。向こうが何を考えてるにせよ、直接……逢い引きするんだからな』
微妙な間があった。
「……馳馬。僕はどうして、普通のデートが出来ないんだろう」
『それは……とりあえず美形との縁があるだけ幸運と考えろ』
詐欺師みたいな心構えを力説された。
車外に一歩足を踏み出せば、肌を刺すような低温。
朝の空気は一二月下旬の寒々しさに満ちていた。
「ま、そうなりますよね」
ひとまず、朝が弱い同居人――年の離れた妹みたいなものの世話が先決である。
家事は人生の救いだった。
◆
冷たい水で顔を洗うのは好きだ。
刺すような冷たさが、顔の皮膚や指先を刺激して、ここにいる実感をくれる。
鏡を見る――母親譲りのプラチナブロンド、青い瞳までそっくり。
今なら、そういう記憶を思い出せる。
だが、この時代に目覚めた当初、自分は何も覚えていなかった。
どうして、見覚えのある線の細い容姿に獣のような耳や尻尾があるのかさえわからない。
アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァには、連続性のある記憶がなかった。
自分が何者であるのか、はっきりと示してくれる道しるべ。
いわゆる自己同一性、アイデンティティというものに欠けている。
言葉すら失われていた彼女に、言語と常識を教えたのは、家族代わりになっている東洋人の青年だ。
塚原ヒフミ。
縁も所縁もない少女を引き取り、身元を保証してくれた人。
おそらくは善人であり、ふざけた態度も仮面の一つでしかない人。
彼と一緒にこの家に住み始めて、かれこれ三年になる。
その間ずっと、分担制とはいえ大半の家事を引き受け、学校や病院の手続きまでしてくれた。
忙しくて疲れる仕事なのに、アクサナが思い出した誕生日や、年末年始には一緒にいてくれた――きっと無理をしながら。
――どうしてなんだろう。
今まで何とも思っていなかったのに、最近、急に怖くなってしまったこと。
いつもならぐっすり眠っている時刻なのに、起床してしまった理由は不安感だった。
落ち着かない。
顔を洗っても駄目だった。
意識が冴えるとかえって、よくない想像ばかりしてしまう。
これでは読書も勉強も手に付かない。
かといって個人用端末でニュースサイトを見て回るのも、時間を潰すだけで無益に思えた。
結局、この得体のしれない不安を解消するには、問題の元凶と向き合うほかないのだ。
だからきっかけを作ろうと思った。自分とヒフミを繋ぐもの――彼が大切にしているもの。
朝の幸福とは朝食であり、それ以上でもそれ以下でもない。
つまり貧しい食事は、その人物の幸福の上限の低さを表すし、豊かな朝餉は常に幸福を保証する。
すべて塚原ヒフミの受け売りである。鬱陶しい域に達している小言だった。
麺類以外に価値はないと言い切る割りに、彼は凝り性なのだ。
ここ三年で培われたアクサナの常識は、それに慣れきっている。
たぶん、ヒフミとアクサナの間にあるつながりは、目に見えない生き方の方が多い。
パジャマから着替え、厚手のセーターとジーンズを穿いて、エプロンを取り出す。
暖房のスイッチを入れた後、そろりそろりと廊下を歩いた。
亜人の手足は気候の寒暖差に強く、冷え切ったフローリングさえ心地よく感じる。
まず、キッチンを見渡す。
昨日の洗い物は片付けてあったから、洗い場は綺麗だ。
すぐにでも調理に取りかかれた。
大鍋には、たっぷり作ったキャベツとキノコのスープの残り。
ベーコンの旨みが溶け出し、柔らかく煮込まれた野菜が浮かぶ汁。
温め直せば二人分ぐらいあるだろう。
いつもの定位置、棚代わりのテーブルの上には、包装紙にくるまれた買い置きの黒パン。
黒パンは美味しい。
ライ麦の色濃い香り、酸味の利いた味がアクサナの好みに合う。
ヒフミは甘い白パンの方が好きなようだが、今日は自分の流儀にすると決めた。
作り方を勉強した料理を、いくつか思い浮かべる。
食べ応えもあって、パンとスープを補う品がいい。
そうと決まれば食材を調べるときだ。
野菜棚――ジャガイモ、人参、玉ねぎがたくさん。
日持ちするから豊富にあった。
冷蔵庫――封を切ったばかりのマヨネーズ、新鮮な卵、パッケージに詰まった鶏胸肉。
野菜室にはセロリが少々。
決まりだ。
小鍋三つに湯を沸かし、鍋二つに塩を投入。
一つめの鍋――鶏肉を塩ゆで。
二つめの鍋――ジャガイモと人参を皮ごとゆでる。
三つめの鍋――固ゆで卵を作る。
ゆであがるまでの間、玉ねぎとセロリをみじん切りにしておく――刺激物質で涙腺を刺激され、涙があふれ出した。
切れ味のいい包丁だから、大丈夫だと思ったのに。
これだから料理は嫌いなんだ、とクスーシャは思う。
ヒフミによれば、こういうとき目を擦ると、かえって涙が止まらなくなるのだという。
ぽたぽたと頬を伝う涙を堪える。
悲しくて泣いているのとは違うのに、少しだけ気が楽になった。
涙が収まったころには、肉も野菜も卵もゆであがっていた。
まな板の上のみじん切りをボウルに移し、ゆであがったジャガイモと人参の皮を剥く。
さらに、ゆで卵を水道水で冷やす――真冬の水なら効果覿面だ。
冷ましておいた鶏肉と一緒に、野菜をさいの目切りにしてボウルへ。
塩こしょう、若干の砂糖とお酢――具材と軽く混ぜた後、細かく刻んだゆで卵を散らし、マヨネーズをあえる。
これで完成だ。あとは少し放置して、味を馴染ませておけばいい。
ボウルの縁を人差し指でなぞり、ぺろりと舐めた。
昔のアクサナとは似ても似つかない、太くしなやかな亜人の指。
その表面に付着した調味料と具材の混淆物を、唾液でぬめった舌先でなぞる。
皮膚をなぞる舌触り、ぴりっと香るこしょう、強めの塩気、マヨネーズのまろやかな酸味、砂糖のコク。
悪くない味付けだった。
玄関のロックが解除され、扉が開く音。
聞き慣れた足音が一人分、ゆっくりと近づいてくる。
アクサナは、ちょうど後片付けを終えたところだった。
濡れた両手を手ぬぐいで拭き取り、キッチンの入口へ振り返った。
「おかえり、ヒフミ」
「ただいま。今日は早いんですね、クスーシャ」
クスーシャ。
アクサナに対する愛称だった。
昔、ようやく彼に対する警戒が薄れたころ、自分から教えた呼び名。
最初、この世界に馴染めなかったころからは考えられない関係だ。
彼と彼女の、家族みたいな距離感はもう出来上がっている。
なのに自分は、今さら何を恐れているのだろう。
このまま、いつも通りの日常を続けてしまえば、不安感も薄れてくれるような気がした。
後回しにしてしまえ、と怯懦がささやく。
「クスーシャ?」
ヒフミの怪訝そうな表情。
柔和だが胡散臭い顔に、本物の気遣いが浮かんでいた。
「ええと、うん。朝ご飯、作っておいたから」
「ありがとう。少し待っててくれますか、シャワーを浴びてくるから」
後ろ姿が離れていく――完全に彼が見えなくなって、やがて風呂場からシャワーの水音。
薄らいでいた不安が、再び頭をもたげる。
このときアクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァは、抱いていた疑念をぶつけようと決めた。
ヒフミが湯から上がってくるまでに、朝食の準備を済ませておく。
火にかけた鍋から熱いスープをよそって、ガラスの器に先ほどのサラダを盛りつけた。
二人分のスープとサラダ、黒パンをのせた小皿をトレイに乗せ、和式のテーブルに並べていく。
ひょこっと顔を出す青年の顔。
「これ、ポテトサラダですか?」
湯上がりのヒフミは、いつもの伊達眼鏡を掛けていなかった。これだけでずいぶん、印象が違う。
具体的にあんまり胡散臭くない。
その代わりに苦労しそうな雰囲気で、これはこれで難儀な気がした。
「サラート・オリヴィエ。ロシア風サラダって言えばいいのかな、食べてみてよ」
「うん、美味しそうだね」
向かい合うように食卓に着き、異口同音にお祈り。
「いただきます」
「いただきます」
見よう見まねで塚原ヒフミから学んだ、異境のやり方。
湯気の昇るスープを口に運ぶ。お腹の方から温まる優しい味がした。
ヒフミの方を見る。ジャガイモと人参、鶏肉とゆで卵の混じったポテトサラダが、彼の口へ入った。
ゆっくりとそれを噛み締め、咀嚼。ヒフミは微笑みながら感想を述べた。
「美味しいよ、クスーシャ。今まで食べた君の料理で、一番かもしれない」
「……それ、褒めてるの?」
「上達してるってことですよ」
違和感。
何かの前置きのように、ヒフミが目蓋を閉じた。
次の目を開いたとき、飛んできたのは真剣な眼差し。
「今朝の君には、悩みがあるように見えるんだ。僕に話してもいいことなら、いくらでも相談に乗るつもりです。今日は忙しいけど、後で時間は取れます」
優しいと思った。
けれどそれだけで、切羽詰まった少女の不安は消えてくれない。
ここのところ、ヒフミが忙しそうなのも知っていた。
このひとときも、一時的な帰宅に過ぎないのだろう。
それでも、今、ここで尋ねたかった。
彼の仕事は危険と隣り合わせで、何が起こっても不思議ではない。
目の前の青年が二度と帰らず、このままいなくなって、小さな家が空っぽになるのが怖かった。
「ずっと前から、ヒフミに聞きたいことがあったんだ……それで、病院の先生に聞いたら教えてくれた」
「先生?」
「タコみたいなサイボーグの人」
一瞬、ヒフミが天を仰いだ。
「エティエンヌ……」
「ぼくの定期検診って、神経の検査なんでしょ。サイキックの疑いがある人にするのと同じような」
視線が少女へ戻る。ヒフミは、じっとアクサナの顔を見ていた。
目を逸らさず、この話題を切り出した少女の意図を何一つ見落とすまいとするかのように。
「前にさ、ヒフミが教えてくれたんだ。亜人種は、絶対にサイキックみたいな変異脳にならない種族だって。ぼくの躰って亜人と同じ作りなんでしょ?」
一呼吸。
わけもなく深呼吸して、動悸の止まらない胸を右手で押さえる。
とくん、とくん。
遠い昔と変わらないもの。
病魔に冒され、お屋敷のベッドの上で空想にふけっていたころと変わらない痛み。
「おかしいよね、それ。ぼくは普通の人間だったはずなのに、目が覚めたら亜人の躰になっててさ。一二〇年も時間が経って、挙げ句にこれだよ。ありえないことだらけじゃない」
ここのところ、何かに悩んでいる彼の姿に、自分の知っている三年間と違う顔を見た気がした。
だからヒフミの負い目を責め立ててでも、この場に引き留めたいのだ。
少女の中の浅ましい打算が、どうしようもないぐらい膨れあがって、衝動的な言葉を吐き出させる。
お互いに、絶対、逃げられない問いかけ。
「――教えてよ。ぼくは何者なの?」
口にしてから後悔する問いかけだった。
もしかしたら、致命的かもしれない疑問。
幸せは簡単に壊れる。
父様と母様が不仲になり、やがて幼いアクサナを残して母が去っていったように、安らぎは霧散する。
どんなに大切な時間だと思っていても、人も心も変わってしまう。
だが、青年は少女の思う以上に誠実だった。
「クスーシャ、最初に言っておきますが。その質問に対する答えは、僕も知りません。君に定期検診があるのは、医者や科学者にもわかっていないからです。その上で、話しましょう。僕の本業、人類連合調停局(UHMA)の超人災害対策官としての推測を」
それは、滅多にヒフミが見せない顔だった。
遠くを見るような眼差しは、アクサナの知らない世界へ向けられている。
目の前の皿には熱いスープがあり、暖房でぽかぽかと温かい部屋の中だというのに。
震えが止まらなかった。怖い。
ああ、わかってしまった。
ヒフミの変化を恐れた理由は、笑えるほど単純だった。
自分が信じているのは、今までそこにあった安らぎだけで、人間を信じているわけではなかったのだ。
アクサナは臆病だから、自分の知らない一面を見せた青年を疑い、必要以上に恐れた挙げ句、どんな答えが返るかわからない問いかけをした。
それに誠実であろうとすれば――耐え難い苦痛が待っているのだ。
「一〇〇年ほど前、世界最初の超人災害――超常種による人体汚染が発生しました。人類連合ではそれを、東京一号と呼んでいます」
そんなこと、歴史の授業で習っている。
しかも自分は二一世紀のとき、日本に来たことなんて一度もなかった。
予備知識を持っているだけだ。
けれど、アクサナの心はまったく別の実感に打ち震えていた。
――もしかしたら、ぼくは。
おぞましい可能性が、途方もなく現実感を伴ってせり上がってくる。
信じたくはない。
考えたくもない。
だが、自ら始めてしまった答え合わせを聞き逃したくはなかった。
ヒフミの声が、思索に没頭する少女を現実へ引き戻す。
「アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァ。三年前、僕は東京一号の残骸から君を見つけたんだ」




