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休戦協定

 俺と鮎菜ねーちゃんが家を飛び出したからって、時間の流れが変わったりとか、世の中の情勢が変動したりとか、そんなことはまるでない。


 睦月の家に上がり込んでから、最初の週末を迎えていた。その間、睦月は学校にはやはり顔を出す様子はなかったし、鮎菜ねーちゃんはこれまで通り普通に大学に通っている。


 生活面での変化といえば、日々の朝食や夕食の席に、睦月も加わるようになったことぐらいだろうか? 聞けば正人が入院して以来、家で食事を食べることもなくなっていたらしいのだが、今では鮎菜ねーちゃんのおかげでちゃんと帰ってくるようになっている。


「部屋に帰ると真っ暗じゃないのは、なんだかとてもいいことですね」


 と、睦月が呟いていた言葉が印象的である。


「明るい部屋に最後に帰ったのがどれくらいだったのかも、もう思い出せません。ずっと、ずっと、昔のことだったように思うんです」


 ……そんな睦月を見ていると、やはり俺は鮎菜ねーちゃんに随分救われていたんだろうなと思うのだ。


 だからきっと、睦月は俺なのだ。鮎菜ねーちゃんが家に来てくれなかった場合の俺の未来を、生きているのが睦月なのだ。


 ――閑話休題(それはさておき)


 この週末、俺と睦月は樹里の誘いで、駅前にあるライブハウスで行われるというイベントに行くことになっていた。


 普通、ライブハウスというのは、夜にライブが行われるものらしい。しかし、今日行く予定のμ’s(ミューズ)というライブハウスでは、学生向けのイベントが昼間の間に行われるということであった。


 こうした形式でのイベントは、樹里の話では比較的珍しいことらしい。ただ、まったくないというわけでもないらしく、オーナーの気まぐれや企画主の意向などでこうなることもなくはないのだとか。


「まあ、学生(こっち)としてはありがたいよね。普段のライブだと、やっぱ夜の九時とか過ぎちゃうし、そうなると親にも色々言われるしさー」


 午前十時ごろに駅前で合流した樹里は、ライブハウスへと向かう途中、そんな言葉を俺たちに向かって投げかけてくる。


 今日の彼女は、ホットパンツにノースリーブのサマーニットといういで立ちであった。頭にはキャップを被っていて、足元はスニーカーサンダルを履いている。その爪先では、ラメ入りのマニュキアがきらきらと陽光を浴びて輝いていた。


 今日も今日とて、いかにもギャルギャルしい格好である。というか、完全に夏仕様の装備であった。まだ六月で、そこまで本格的に暑いわけでもないというのに……。


「ねーやっぱさー、門限七時って早すぎない? 十時ぐらいまでは好きにさせてほしいっていうかさー……」


 と、ボヤ樹里は、なぜかそこだけ今日のファッションには不釣り合いな、大きなリュックを背負い直している。


「親もそんだけ心配なんだろ。可愛がられてて結構なことなんじゃねーの?」


「なのかなー? へへっ、まあそう考えたら悪い気分でもないかもだケド?」


 俺の言葉に、ちょっとだけ照れくさそうな様子で笑ってみせる樹里。


 そんな彼女に、俺は先ほどからの疑問を投げかけてみた。


「……つーかお前、今更だけど、その格好って寒くねーの?」


「あ、これ? かぁいいでしょー? このニット夏の新作なんだって」


「いやまあ確かに可愛いけど……俺が言いたいのはそういうことじゃなくてだな」


「これ買うためにちょっと奮発しちゃったんだよねー……だからしばらく節約しなきゃ。やっぱバイトしよっかな、小遣いだけじゃちょっと厳しいなーって最近思うっていうかさー……」


 こやつどんどん話題が逸れていきやがる。


 これだから女とか女子とかギャルとかいう生き物は……。


 ため息をこぼしながら、自販機で買った缶のカルピスを傾ける樹里を横目に見る。


 ……樹里は、今の俺の状況を知らせていない。家を追い出されたことも、鮎菜ねーちゃんと二人で睦月の部屋に上がり込んでいることも、何一つとして話していない。


 それは、話すのを忘れていたのではない。あえて話さなかったのだ。


 正人の一件が、樹里に重くのしかかっていないわけがない。そこにさらに、心配の種を増やすようなことはしたくなかった。


 だからこそ……こうして樹里が楽しそうに、元気そうに言葉を紡ぐ姿を見ていると、ほんの少しだけ安心する。きっと親御さんの対応もいいんだろう。こいつはこうして、元気でいてくれたらそれでいい。


 一方で、睦月である。


 今朝、一緒に準備を整えてから別々のタイミングで俺たちは家を出た。しかし、駅前で合流してから今に至るまで、一言も自分から口を開いていない。


 いつもの睦月ならば、きっと積極的に樹里に絡んでは「ウザい」だの「キモい」だの「やめろ鬱陶しい」だのと言われているはずである。だが、そんな素振りは微塵も見せず、今も数歩後ろからただとぼとぼとついて歩いてきているだけだ。


 俺のほうから声をかけるべきではないのか? と思わなくもないが、どうにも妙に気を遣ってしまって、どういうことを言えばいいのか分からない。結果、ずるずると樹里とばかりこうして会話をしてしまうわけで……。


 ……まったく、ダメなやつだな、俺は。本当は睦月にだって、ちゃんと気を配るべきだってのに。


 そんな風に俺は自己嫌悪を覚えていたのだが、あるタイミングで不意に樹里が行動を起こした。


「……」


 唐突に足を止めた彼女は、くるりとその場で踵を返し、後ろから歩いてきていた睦月と向かい合う。


 それから、仏頂面ともなんともつかない感じに顰めた表情を浮かべて、つかつかと睦月の前まで足を進めたのである。


 それから挑むような目つきで樹里は睦月を見上げると――おもむろに、すっと彼女に向かって右手を差し出す。


「休戦協定」


「……」


「とりあえずあのバカでクソでねぼすけな兄貴が起きるまで。それまではいったん、仲直り」


「……」


「するの? しないの?」


「……あ、す、する。しますっ」


 慌てた様子で睦月が手の平を服で拭うと、樹里の差し出した手と握手を交わす。


 すると樹里は、「ひひひっ」と笑って、


「ま、今日は楽しんで」


 と、悪戯っぽく言うのである。


 ……いやはや、魂消た。


 樹里はもしかすると、俺が思っているよりもずっと、大したやつなのかもな。

えー……まとめて書き溜めてた分投下しました。

というのも、この作品、こんな中途半端なところで申し訳ないんですけれどしばらく新作に集中するため書くのやめます。

一応、新作を書きあげたらこの続きは更新する予定です。二章、まだ全然終わってないんで。なんなら三章のプロットまでできちゃってるんで。


そんなわけで、書いた分ぐらいはとりあえず置いておこうかなあという次第であります。

ではでは、数か月後とかになると思いますが、再びこの作品でお会いいたしましょう。

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― 新着の感想 ―
[一言] よくある若者の人間関係に対する悩みなど、現実の大きな困難の前では取るに足らない。 うじうじ悩んでいる余裕なんかないのだから、力のない者同士で寄り添って困難に立ち向かわないといけない。 そんな…
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