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桜花と紅葉

 次に姫が目覚め、乳母が「お身体に障るので」とお食事など勧められた後一息つくと女童が、


「生駒さんが、こちらに参上したいと言っているそうです」と伝えてきた。


 ところが姫は返事をしなかった。戸惑い、口ごもるばかりだ。


「いかがなされました? 生駒に会いたいのでしょう?」乳母はそう聞きますが姫は、


「なんだか、怖いわ。自分が悪いのだけれど」とおっしゃっる。


 乳母は軽くため息をつくと、姫に幼子に語りかけるようにこう言った。


「姫様。私にはどうしようもない兄がおりましてね。世渡りが下手でいつまでたっても六位止まり。身内が集まる席などでも肩身が狭いのか、あまり口も開くことなくすぐに席をはずしてしまうような兄なのです。私も邸勤めをしていますから、めったに顔を合わせることなどございません。たまに便りをよこしても昇官のためのコネがないかとか、無心をする話ばかりなのです」


「まあ……」


「それでも兄も時には人恋しくなったりするのでしょう。文だけではなく、会って話がしたいと言ってきたりするのですよ。そんな時は私もどうしたものかと思ったりするのですが、兄のあまり上手くもない手(筆跡)など見ているうちに、やはり会おうという気になってしまうのです。そして会ってみると、やはり幼い日のあれこれなどが思い出されて、憐れ深い思いがするのでございます」


「良い思い出が、沢山あるのでしょうね」姫はそう言ったが乳母は、


「とんでもございませんよ!」と憤慨した。


「兄は幼い頃年かさなのをいい事に、随分私をいじめたものです。私は悔しくて、十を過ぎたら兄と口など聞くものかと思っておりました。今だって私の袖に蛙を忍ばせた怨みは晴れていないのですから」


 そう言って乳母は鼻息荒くしていたが、ふいにその表情を和らげため息をついた。


「……それでも、そんな兄が私などを頼って酒など口にしては涙もろくなった様子などを見ると、ああ、やはり会って良かったと思う物なのでございます」


「……そうなの?」


「ええ。諸行無常のこの現世。何があろうと人は心残す人とは心を開いておくに限りますわ。私と兄でさえそうなのです。姫様が死ぬほど心配なさっている生駒と会わずになど、いられるものですか。素直に生駒に会ってやって下さいませ。そして本当の御本心を、生駒に話してやって下さいませ」


「そうね。何より生駒に謝らないと」


 そう言って姫はようやく、「生駒にすぐ御前に参るように伝えなさい」と言って女童を使いに出した。



 そうやってようやく生駒が御前に参ると、姫はすぐに御簾のうちに入るようにと言う。


「私はもう、姫様の女房ではございませんから」


 そう言って生駒はお断りしようとしたのだが、


「そんな事言わないで、生駒。顔だけ見せてくれればよいから」


 と、姫に言われてはそれ以上拒む事は出来ない。生駒が御簾のうちに入ると、すぐに姫と生駒は顔を見合わせた。

 会ってしまえば言葉など要らなかった。思わず立ち上がりかけた姫に、生駒の方から駆け寄ってしまった。手を取り合えば姫は、


「ごめんなさい、生駒。ごめんなさい」と繰り返した。生駒も首を横に振り続けていた。


「謝るのは私の方でございます。私の浅はかさから姫様に取り返しのつかない傷を負わせてしまう所でした。あの瞬間、私は自分が苦しみから逃れることしか、頭になかったのでございます。こんな生駒をお許しいただけますでしょうか?」


「いいえ。謝っているのはあの時の事だけではないの。わたくし、生駒がどれほど苦しんでいたか知っていたの。知っていたのに何も出来なかった。そんな自分が苦しくって、傷ついた生駒を見るのが怖かった。今だって怖いわ。わたくしが傷つけた生駒を見るのが、怖いわ」


 姫はそう言って悲しげな表情をしていた。


「私も同じでございます。私は姫をこれまでずっと悩ませておりました。私さえいなければ、姫はお苦しみになる事はなかったと、ずっと思っておりました。ですから私、あの時思ってしまったのです。これでようやく救われると。けれどそれは間違いだと気がつきました。姫様の御心を壊すような真似をして、あのまま果ててしまっていたら、私は地獄の火に焼かれ続けた事でございましょう。それでも姫様の御心を壊した後悔で、物足りぬと悔やんだに違いありません」


 生駒はそう言って苦いものを噛みしめたような顔をする。


「正直に言うわ。わたくし、いっそ、自分の心など壊れてしまえばいいのにと思ったの。苦しいことから逃れたくて、誰かが苦しむのを見たくなくて。けれど、本当にあなたに刃が刺さる目前に思ったの。それでいいの? って」


「姫様」


「いいはずがなかったわ。わたくしの心はわたくしだけのものではなかった。わたくしを愛して下さる方々、すべてのものだったの。分かっていながらあの時わたくしは生駒に甘えたの。あなたはわたくしに命奪われようとも、わたくしの心が壊れようとも、許してくれると思っていたから」


「……私はいつでも、どんな時でも姫様の御望み通りにいたします」


「分かっているわ。でもそれはわたくしの本当の望みではなかったの。生駒に甘えたかったのではなく、本当に、生駒を救いたかったのよ。その力がない事を苦しんでいただけなのよ」


 姫は悔しそうにそう言うと、うつむかれてしまった。


「姫様。私は救われましたわ。姫様によって。先ほどお方様にお教えいただきました。人は人を傷つけなければ生きられないと。その傷の深さだけ、深く人を愛せると。姫様は私を深く傷つけてまで、御自分が深く傷つかれてまで、私のようなものを愛して下さいました。私も姫様の御心を壊そうとするほど、深く姫様をお慕いしているのです。愚かな私がそれに気付かずにいただけなのです」


「生駒、あなたという人は」


「私は幸せ者です。これほど姫に思っていただいて」


 ほほ笑む生駒に、姫は思わず抱きついた。


「生駒。ああ、生駒。大好きよ……」


 姫を抱きとめながら生駒は思う。ああそうよ。姫様はいつだって、こうやって私に好意を伝え続けてくれた。幼さからだけじゃない。無邪気なだけではない。

 御心の内に沢山の傷を抱えながらも、その傷を超えるほどの愛を私に向けて下さっていた。

 私に愛を教えてくれたのは、大納言殿や隼人ばかりではなかった。お方様も姫様も、こんなにも私に愛を教え続けてくれていたのだわ。復讐に曇った目で、私が気付かずにいただけなのだわ。


 この邸で育つ事が出来て良かった。ここで生きてきて良かった。


 隼人は言っていた。私は奪われること、代わりになる事で愛を知った女だと。でもそれは違うわ。私はこんなにも愛されることを知っていたのだわ。私が気付かなかっただけ。

 だから隼人の愛にも答える事が出来たのだわ。


「姫様、私もお慕いしております。心から」


 そう言う生駒の頬にも、一筋の涙が流れ落ちて行く。


「どうして姫様の事を、少将様が『桜花の君』とお呼びになるのか分かりましたわ。姫様の御心の中には、春が宿っているのでございましょう」


 生駒が少し姫から身を離して言った。


「春が?」


「ええ。ただ、温かい中で花を咲かせるだけではない。暑い日差しの中で葉を茂らせ、冬に向けてその葉を落とし、厳しい寒さの中を耐えながら、少しずつぬくもりを感じ力を蓄えて、その寒さに耐えただけの美しさを備えた花を一斉に咲かせる。一見可憐に見える桜の花は、そうやって咲き誇るのだわ。姫様の御心に宿る春は、夏の暑さや秋の侘しさ、冬の厳しさを知っている春なのでしょう。それなのにあんなに可憐な花を目にも鮮やかに咲かせる。桜の花が本当に似合う御心をお持ちなのです」


 生駒はそう言って、姫を誇らしげに見つめた。


「それならあなたは秋の心を持っているわ。春の華やぎを知り、夏の暑さを乗り越えて、鮮やかに山を染めるように、人の心を彩るの。そして迎える冬のために人の心が凍えぬように、落した葉で優しく包んでくれるのよ。あなたは時には落ち葉のかけ衣となり、時には自らに火を放ち、焚き火となってまで人の心を守ってくれるの。生駒は秋の紅葉なのだわ」


 姫の言葉に生駒は不思議そうに言った。


「隼人は私を秋の『龍田姫』だと……」


「まあ。隼人に先を越されたわね。わたくしはいつも生駒を秋の紅葉だと思っていたのに」


 姫は今度こそ本当に無邪気な笑顔をして、そうおっしゃった。







古代から平安にかけて「春秋争い」と言う、美しい考えがありました。日本の四季の中でも「春」と「秋」は特に美しく、甲乙つけがたいとされ、和歌や詩の表現などで、どちらがより美しいかを競う考えです。


はっきりとした四季と豊かな自然があるからこその、雅やかな発想だったのでしょう。

古の人々の心の豊かさを感じます。


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