後朝の別れ
隼人がぐっすりと眠りこんだのを確認すると、生駒はそっと起き上り、隼人から離れた。
疲れの残るその顔を見ながら身を離そうとした瞬間、一瞬だけ隼人が身じろぎをして、生駒はひどく離れ難い想いに駆られたが、目を閉じて離れてしまえば、その決意は揺るぐ事はなかった。
隼人に囁かれながら「出来ない約束だ」と繰り返し思ううちに、かえって心は決意を固める事が出来た。自分は約束を破るために今、返事をしている。そして必ず私は今夜、あの男を倒しに行くのだ。倒せるかどうかなんてわからない。一太刀も浴びせることなく、あっけなく返り討に遭うかも知れない。けれど向こうも女相手なら何か隙ができるかもしれない。真正面からではなく、何らかの不意を突けば倒せる可能性はあるだろう。倒す時は道連れは覚悟の上。たとえ倒せなくてもギリギリ最後まで、あの方たちを守って倒れよう。
決心がついた生駒は、自分に最後の未練を許す事にした。隼人が脱いで几帳にかけた麻布の褐衣を手早く身につけた。隼人は舎人の仕事の後すぐに少将のもとに付き添い、その後真っ直ぐここに来たので、公務で着る褐衣姿のままだった。彼は右大臣家の家来の養子になってはいるものの、彼自身の位は下級武官、地下人の舎人なので、公務の時は決められた褐衣姿でいなければならないのだ。
以前使っていた粗末な狩衣はもう手元にはなかった。急な事だったので別の動きやすい装束もない。せいぜい使えるのは壺装束くらいのものだ。
だったら、せめて最後の未練に、隼人の匂いが残るこの褐衣で、生駒は男を倒しに行く事にした。隼人はついさっきまで生駒に「どんな時も共に」と言い続けてくれた。生駒はその約束をこれから破りに行くが、それなら隼人の匂いと心の残されたこの衣を身に付けて、男のもとに向かう事にしたのだ。
向かう場所が場所だ。もし、本当に運が良くて自分が殺されずにあの男を倒し、あの兼光と言う従者にも殺されずに済んだとしても、きっと検非違使の役人が押しかけて来るだろう。生駒は盗賊の頭として追われる身。捕えられるのは間違いない。
捕まって尋問されても、大納言殿の事や仲間の事を口には出来ない。けれど今度は鳶丸のようにかばう必要のある人もいないのだから、生駒が黙って命を断てば誰にも迷惑がかかる事は無いだろう。
何にせよ、自分が生きて隼人のもとに戻る事はもうないはず。ここでの別れが最後。自分の最後の姿を隼人に見られずに済むのも、生駒にとっては救いだった。隼人の心に生駒の姿は苦悶ではなく、さっきまでの隼人を愛する表情が残るはずだ。
それに最後の瞬間まで、隼人の心とともに居られる。この衣に隼人の心は宿っている。生駒にとってこの衣を身に付けている事は「どんな時も共に」隼人といられる事と同じなのだ。
生駒は髪をくくり、袖の内に小刀を忍ばせた。そして眠っている隼人に自分の脱いだ衣をかけ直してやった。
これも、後朝の別れと言うのかしら?
そんなことを考えながら隼人の寝顔を見つめた。
後朝の別れとは恋人同士が共に一夜を明かしたしるしに、自分の着ていた衣を互いに交換し、愛の証しとすること。そしてその衣を返し合うために、再びの逢瀬を約束するものだった。
けれどこの衣を、生駒は隼人に返す事ができない。
隼人をおいて、大納言家の方たちのために最後に倒されに行ったと知れば、隼人はきっと傷つくことだろう。「共に」と言った言葉に嘘を返していた事を嘆くだろう。
でもそれでいい。所詮あの女は、あの方々への想いからは逃れられなかったのだと隼人が思ってくれれば、いつの日か隼人の傷も癒えるはず。そうすれば隼人には次の新しい人生が開ける。
「隼人。幸せになってね」
生駒は小声でそう言うと、音を立てないようにそっと、遣り戸を開けて外に出て行った。
月夜とはいえ、誰もが寝静まる真夜中の事。当たりはしんと静まり返っている。月明かりの他には揺らぐような明かりも物影もまったくなかった。ただ、秋の初めの風が木立を揺らす音だけが時々生駒の耳を掠めた。緊張の汗がその風に冷やされるのか、生駒の身はひんやりとした感触に襲われる。
それは、さっきまでの隼人のぬくもりを生駒に恋しく思わせた。心のどこかが、あのぬくもりへと戻りたがっているのが分かった。けれど、もう、戻る事は出来ない。
隼人は生駒に一方的に想うだけではない、誰かにすがられるだけではない、互いに愛し合う喜びを教えてくれた。それが自分の人生の最後になってからだった事は、生駒にとっても惜しまれるが、そう言う愛をまったく知らずに、ただ、あの方々のためだけに命を投げ出すのとは、生駒にとっては意味が違っていた。
もう生駒に受け入れられなかった悲しみはなかった。思えばあの心に熱く燃える火は、一人生き続けるうちに誰かに受け入れられたい思いが凝り固まり、それが自分を求められたいという気持ちを強くさせていただけなのかもしれない。それが大納言殿への想いを燃えるように高まらせ、そのご家族との関係が「雇われている」事から目をそらし続ける事になったのだろう。家族としての愛を受け入れられる望みのない我が身を、あの方々を受け入れ続けることで、かりそめの家族として愛する事が、生駒の悲しみを癒やす唯一の方法だったのだ。
けれど隼人が生駒の脅える心を、包み込んでくれた。生駒がどんなに拒もうとも、生駒には愛を求める心がある事を隼人は伝え続けてくれた。大納言殿に想いの残るままでは隼人も身が焼かれるような想いだったはずだが、それでも「共に焼かれる」事を隼人は望んでくれた。苦しみとともに生駒を愛してくれた隼人。今、生駒の心にはその愛の灯火があった。
業火に焼かれるまま最期を迎えるのと、愛の灯火を輝かせながら、隼人の幸せを祈って立ち向かうのでは、生駒にとってまるで意味が違っていたのだ。
この灯火が隼人のぬくもり。もう、寒くわないわ。私があの男を倒して、隼人を復讐から解放したい。
兼光達は寅の時前に落ち合うと言っていた。月は中天よりだいぶ東に傾いてきた。急がなくては。生駒はぐっと息を飲み、その歩を早めた。
大納言邸の西門近くに着いたが、門前はひっそりとしていた。何故か門番の姿も見えない。仕方が無いので生駒は用心しながらゆっくりと西門に近づいたた。
見ると一人だけ門番がしゃがみこんでいる。一見眠っているように見えたのだが、さらに近付くと衣が血で赤く染まっていた。
その顔は生駒もよく知っている侍者の顔だった。門前を出る時など姫様が労をねぎらって車の中から御声をかけると、とても嬉しそうに頭を下げていたものだ。けれども門番は完全に言切れていた。生駒の胸に悲しみと悔しさが湧き上がった。
けれど、悲しんでいる暇はなかった。この門番を殺してあの男達は邸の中に入ったに違いないのだ。生駒もあの男に追いつくまで、誰にも見とがめられるわけにも行かない。
亡きがらをそのままにしていくのは忍びなかったが、生駒は門番の目を閉じてやると、そのまま屋敷の中へと入っていった。
唐突に姫は、目を覚ました。何か夢を見ていたような気もするのだが、目覚めてみると何も覚えてはいなかった。ただ、あの胸騒ぎが夢の余韻とともに姫の心に襲い掛かる。
今の胸騒ぎは決して快いものではない。姫は理由のない嫌な予感に襲われていた。
少将は昨夜お越しが遅かったうえに、姫と管弦の遊びを楽しまれていたので、眠りについたのもとても遅くになっての事だった。今も御帳台の中でぐっすりとお休みになっている。御起こしするのはためらわれた。
すぐには姫は眠れそうもなかった。少将を起こさないように気をつけながら御帳台から身を滑らせるように、姫は出て行った。
誰もかれもが深く寝込んでいた。姫は子鬼が姿を現すのは、いつもこんな夜だった事を思い出した。特に今夜は生駒と父上が逢っていたあの夜に邸の様子がよく似ているようだ。
こんな夜は誰にも見とがめられないのかもしれない。魑魅魍魎以外は。
姫は子鬼の事を思い出しながら、そっと、父上と母上が眠っていらっしゃるはずの、北の対に向かって歩き出した。
大丈夫。何でもないわ。きっと何か悪い夢を見たせいで、眠りにくくなってしまっただけ。皆がよく寝ている姿を見れば落ち着くわ。ほんの少し歩いてくるだけ。
姫はそう思いながら衣擦れの音をさらさらさせながら、暗い中を歩いていた。
その頃大納言も寝つけぬまま、時を過ごしていた。少し前までは八千代の方と昔話をつれづれと話し合っていたのだが、今夜の事で安心したのか、八千代の方は久しぶりにまるでほほ笑むような表情で、深い眠りに導かれたようだった。けれどその顔を見つめる大納言は感慨深くて、とても眠れそうにない。
周りはぐっすりと眠りこんでいた。大納言は寝殿の庭から月でも眺めようと、音を立てないように気遣いながら、北の対を出て行った。
寝殿を抜けて庭に出たが、もちろん辺りはひっそりとしていた。けれど、よく見ると木の陰に人の気配を感じる。その出で立ちから見回りの者かと思ったのだが、何か様子が違うようだ。よくよく目を凝らして見ると……。
「生駒!」
大納言は驚いて声を上げた。その姿は随身の褐衣姿だが、長い漆黒の黒髪を束ねて括りつけたその顔は、確かに生駒だった。
「生駒、どうしたのだ? そのような姿で。このような所にいて大丈夫なのか?」
すると生駒が駆け寄って来て、
「危険なのは大納言殿の方でございます。こんなところに出ておいででは危のうございます。今、この邸にはあの人殺しの盗賊の頭が忍びこんでいるのです。すでに西門で門番が殺されておりました」
「門番が?」
「戸惑っている暇はありません。彼らが何を狙っているのか分かりません。姫様やお方様は御無事でしょうか?」
「皆、中で眠っている。彼らとは盗賊達か? 賊は多いのか?」
「いいえ。何故かはわかりませんが、兼光と言う大夫殿に仕える者が、男と共に忍び込んでいるようです」
「兼光……あの、八千代の方を悩ませている。八千代は大丈夫であろうか?」
そう言って生駒とともに寝殿に入ろうとしたその時、
「大納言、そこを動かれては困るな。悪いがあんたの命をもらいたいのだ」
そう言いながら寝殿の柱の陰から、あの、盗賊の頭領の男が現れた。




