逢えない時間
姫君と少将の婚儀はつつがなく行われ、所顕しとなる三日夜には、盛大な宴が催された。
右大臣の娘の女御様からもお祝いの御歌が送られ、宴は一段と華やかなものになったと評判になった。一時は姫の良くない噂を囁き合っていた殿上人なども、手のひらを返したように大納言にお祝いを申し上げたりしているので、それがまた人々の噂となって、姫の御評判はすっかり良くなられたようだ。
「たいした姫君だ。聡明な姫だろうと薄々感じてはいたのだが。大の大人や粗暴なる者を振り払う男でも、時に都の噂には屈してしまうと言うのに」
少将は感嘆を隠せなかった。貴人は何よりも自分や一族に傷がつくことを恐れるものだ。誰もが心の奥で人の目を恐れながら生きているのが本音であろう。
「まったくでございます。あの姫は人の心の動きに聡い方のようです。わたくし達従者もあの邸に行くと、暑い折は真っ先に手水を用意して待っていてくれたり、寒い折には我々の居所でさえ炭火に気を使い、藁座も冷えぬように工夫していてくれたりします。あれもおそらくは姫君のお心づかいなのでしょう。我々も実はあの邸への御供は楽しみになっているのです。主人の心が行き届いている所は、使われている者達も穏やかで居心地が良いですから」
少将の乳兄弟がいつも以上に饒舌に答えた。この乳兄弟も隼人と共に少将のお傍去らずの存在だ。このところ隼人が供に加わらない日が続いているので、妙に意気揚々としている。この男も少将にとっては親しい存在なのだが、隼人と比べるとどうしてもやや、調子の良いところがある。それも心地よく、楽しい事ではあるのだが、自分にだけでなく、父や兄にも調子の良さを見せる事ができるので、つい、重用するのは隼人になってしまう。だから隼人が離れ気味の今、張り切って供をしているのだろう。
ご婚儀の後も少将は大納言邸に毎日通っていた。ところが婚儀の後、隼人は大納言邸へのお供につき従う事が少なくなった。少将は生駒のもとに行っているのだろうと思っていた。
暗がりの中に二つの影があった。一人は大柄、もう一人は中肉中背な男だ。
「今夜は月もありません。早く戻りましょう」
中肉中背の男が大柄な男に声をかけた。
「いや、せっかく良い加減に酔いが回っているんだ。そう固いことを言うな」
大柄な男が機嫌よく言う。やはりこの男があの盗賊。遠い記憶とはいえ、忘れるはずのない声に隼人は男が自分たちの仇であることを確信した。
一人での行動は危険だと隼人も分かってはいる。だが、今この男はこんなにも自分に近い所に、無防備な姿をさらしているのだ。
この男を倒さない限り、生駒は危険な橋を渡り続ける。何よりその心はあの方の方を向いたままで。
大柄な男がフラフラと路地の暗がりに向かう。
「どこに行くんです? 離れないでください」
「馬鹿野郎、小便だ。いちいちついてくるな」
男が一人になった。隼人は迷うことなく太刀を抜き、男の方に向かっていく……
ある日使いの者が少将に、
「検非違使の役人が、隼人の事で少将殿に申し上げたい事があると申しております」
と言って来た。もしや生駒をかくまっている事が役人に知られたのかと思い、少将は用心しながら、
「分かった。込み入った話になりそうだから、皆、下がっているように」
と、人払いをした。会ってみると男は役人と言うより、隼人のような舎人を思わせる逞しげな年配の者だった。
「私のような者が御声をおかけして申し訳ありません。私は隼人と古い知り合いで、隼人に昔弓を教えていた忠清と申します。失礼ながら少将殿に隼人の事でお願いがあるのです」
「ああ、あなたが」少将はホッとした。
「あなたの事は隼人から聞いています。そのようにかしこまらなくて結構です。私は隼人から弓を教わりました。そしてあなたはその隼人の師匠。私にとっても弓の師匠も同然です。私や隼人が帝の御前で行われる賭弓などでお褒めの言葉をいただけるのは、ひとえにあなたの御蔭でしょう」
「もったいない仰せにございます」忠清は深く頭を下げた。
「それで、隼人がどうかしましたか? あなたのような素晴らしい師匠を、あの者は何か困らせるような事でもしたのだろうか? でしたら私が師匠になり代わって、しっかりと小言を言っておくが」
「恥ずかしながら、その御言葉に甘えさせていただきます。少将殿から隼人を諫めてやって下さい。あれは人斬りの盗賊を私と共に仇として追っておりますが、最近深追いが過ぎるのです」
「人斬りの盗賊。生駒が追っている男か」
「左様にございます。以前の隠れ家らしきところからあの騒ぎの後、居場所を変えたらしく探し続けておりましたところ、粟田の方で似た者がいると聞き、今度二人で探すことになっておりました。ところが隼人は最近気を逸らせており、昨夜真夜中に一人で粟田に向かい、男の仲間に囲まれ返り討に遭いかけたようなのです」
「隼人が?」
「幸い身体に傷を負うことなく逃れたようですが、袖から脇にかけて、狩衣がざっくりと斬られておりました。こんなことを続けていれば、いずれ命を落とします。あれは今、私の言う事など耳を貸しません。どうか主人であるあなた様にお諌め頂きたいと」
生駒と逢っているのかと思っていたが。その男は隼人にとっても仇であったのか。
「隼人の事だ。生駒のためにも早く仇を打ってやりたいと焦っているのだろう」
「私もそう思います。あれは少し頭を冷やさなければいけない」
「しかたがない。しばらく隼人は私の目の届く所に居させよう。生駒の所にも行かせられない」
少将はため息をついた。
「そうしていただけると助かります。昨夜の一件で、仇の男もまた、隠れ場所を変えた事でしょう。また一から行方を捜し直します」
「気をつけるように。忠清にまで危険なことをされてはかなわない。それから私も妻も生駒の居場所は知らないのだ。お前が生駒に知らせてくれないか? 隼人はしばらく来れないと」
「伝えておきましょう。隼人の事、よろしくお願いします」
「やれやれ。師匠泣かせの困った弟子だ」
そう言って少将は隼人を呼んで来るように使いを出した。さっそく隼人は少将のもとに来たが、話を聞かされると、
「まったく、忠清殿は」と、唇を噛んだ。
「何を言う。忠清に心配をかけたのはお前の焦りのせいであろう。それに水臭いではないか。何故私に相談しない。右大臣家から侍の一人や二人、付けてやるものを」
「そんな事は出来ません。そうおっしゃられるのではないかと思って黙っていたのです。これは私達の私怨による復讐です。右大臣家を巻き込むわけにはいきません。右大臣家には宮中に上がられている女御様がいらっしゃいます。少将様にも妻となられたばかりの姫君が居られます。舅の大納言様と、北の方も少将様に期待をかけていらっしゃる。以前のようなお気楽な立場ではないのです。少将殿には背負う物ができたのです。お力をお借りする訳には参りません」
隼人はきっぱりと少将の申し出をお断りした。
「分かった。私も自重しよう。だが、お前も頭を冷やすがよい。忠清殿の言う事はもっともだ。しばらくお前は私の傍につき従って居てもらう。仇の行方を探るのは忠清に任せるように。行方が知れる頃にはお前も少しは落ち着きを取り戻すだろう」
少将はそう言って、隼人が自分の傍から離れることを許さなかった。
生駒は忠清によって、隼人がどれほどの無茶をしていたのかを知らされた。何も隔てずに生駒が隼人が向き合うには、互いに復讐に向かって心を合わせるしかない。隼人にそう思わせてしまったのは生駒の隼人を受け入れようとする勇気のなさが原因だと生駒は思った。その結果、生駒は隼人を危険にさらしてしまったのだ。
そして隼人は生駒のもとを訪れる事ができなくなった。確かに今の隼人では生駒に逢えば生駒に代わって復讐を遂げようとする心を強めてしまうだろう。自らの復讐の他に、生駒の心を自分に向けるためにも隼人は躍起になってしまいそうだ。そして隼人をそういう風に追い込んだのは生駒自身だ。隼人に冷静さを取り戻してもらうため、生駒は隼人をひたすら待たなくてはならない。
生駒自身は女盗賊として追われる身だ。自分で動く事は出来なかった。鳶丸も同様だ。あの男の周辺を探れば、たちまち正体がばれることだろう。
けれど隼人が冷静になって、また生駒のもとを訪れるようになった時、生駒は隼人に復讐のために身を張ることを望みたく無くなっていた。生駒はこれまで十分に隼人を傷つけてきた。この上身の危険を伴う事を隼人にさせたくはなかった。
隼人に逢えない時間が出来て、本当に頭を冷やしたのは生駒の方だった。
大納言と逢えなくなったことと隼人と逢えなくなった事は、全く意味が違っていた。
大納言との事は、結局生駒の一方的な想いが強く、いつかは断ち切るべきだと自分でも分かっていた。邸を出ることをあの瞬間に決断したのも生駒自身だった。
けれど隼人と逢えなくなったのは、生駒が隼人を傷つけ、追いこみ、苦しめた結果だった。何より彼は生駒を心から愛してくれた。生駒と心を合わせることを何よりも強く望んでくれた。大納言への想いの向こう側には自分を育ててくれた北の方がいて、共に育った姫君がいた。大納言への一方的な想いには、あの御家族への想いも共にあった。たとえ未練を断ち切っても、育てられた愛情への感謝は消える事は無いのだと、あの邸から離れて生駒は初めて思った。
でも隼人の身に何かがあれば……隼人が失われるようなことにでもなれば、何も残らない事に生駒は気がついた。隼人の愛は、隼人自身のすべての愛。生駒はそういう愛を自分に向けられていた事に隼人と離れて気づいた。
そしてその愛に応えたい心が、確かに自分の中にあることを生駒は知った。ようやく生駒は炎にまかれるだけではない、自分自身で愛情の火を灯す事ができるという事に気付いたのだ。
少将に諭されてから、隼人は常に少将につき従って居なくてはならなかった。焦りから無理をして返り討に遭いかけた挙句、目指す男の行方を失ってしまったのだ。これは確かに自分自身にも時間が必要だと隼人も分かっていた。おかげで舎人の仕事で宮中に行っている時以外は、少将と共に大納言邸に居る時間が増えた。
少将が姫君とお逢いになっている間、隼人は従者の詰め所である侍所に居たが、一人でぼんやりとしていると今頃生駒はあの人の事を思い出しているのだろうかなどと考えてしまい、自分でもうんざりしてくる。
そんな風に数日過ごしていたある日、邸の下女が従者たちに食事の用意ができたと知らせてくれたので他の従者と共に向かう途中で、鳶丸の親しくしていたという下女の事を思い出した。
隼人は御厨子所に向かってみた。鳶丸と親しかった人を呼んで欲しいと近くの女性に頼むと、奥からまだ若い、小柄な娘が出てきた。鳶丸の事で責められるのかと思ったらしく最初は脅えた様子だったが、隼人が慰めの言葉をかけるうちにむしろ恐縮して、深く頭を下げてばかりいた。
「何か事情がある人だとは思っていました。ただ、私にも邸中の人にも本当に優しくて。今でも信じられないんです。こんなことならいっそ、私も一緒に連れて逃げてくれたらよかったのに」
そう言って涙ぐんだ。鳶丸は「忘れて欲しい」ようなことを言っていたが、娘は逆に思いつめてしまっているようだ。
「辛いだろうが、まだ若いのだから都にいれば別の出会いもあるだろう。元気を出すんだ」
隼人はありきたりなことしか言えなかった。
「いいえ。実は故郷に帰る事にしました」
「故郷に? そっちでやっていくあてはあるのか?」
「いえ……。前の飢饉で親も亡くしましたし、あては無いのですがあの人のいない都に居るのが辛くて。気候も涼しくなりましたし、実は明日ここを出て行くことになっています。最後にこんな慰めの御言葉をいただけて、嬉しゅうございました。ありがとうございます」
これは。鳶丸に知らせてやらなくては。鳶丸は忘れて欲しいと言っていたが、決して本音ではあるまい。何よりこの娘も鳶丸に未練を残している。このまま二人を別れさせて良いものだろうか?
隼人は姫君と少将の御前に、飛んでいった。
「申し訳ございません。私を鳶丸のもとに行くことをお許しください。すぐに知らせてやりたい事があるのです」
隼人はそう言って頭を下げた。
この頃の結婚は男性が三日間女性のもとに通いきれば成立します。
三日目の夜には「所顕し」と言う披露宴が盛大に行われました。
途中で足が途絶えれば愛人扱い。あるいは一時の遊びで終わったりしました。
女性が「待つ」だけで「追いかける」事が禁じられているのに一方的ではありますけど、この頃は男尊女卑が普通の時代でした。
舎人と言うのは下級の武官です。兵隊さんのことですね。
でもこの時代はとても平和なときなので、一番の活躍の場は行事などの時に高貴な方々の護衛をする事でした。
他に剣舞を舞ったり、「賭弓」と言う帝の前で弓の腕を競う行事で腕前を披露したり、馬上から弓で的を射る「流鏑馬神事」なども晴れの舞台でした。
そういう場に出る人達なので、逞しいのはもちろん、見た目も悪くない美男子ぞろいだったとか。
身分は低いものの人気者で、とてもモテた人達だったそうですよ。




