涼やかな香り
「さあ姫様、いつまでもそんなお顔をしていらっしゃると、今日は一日物忌みにしてしまいますよ。桜のつぼみも随分膨らんでまいりました。梅の花をめでるのも、今年はもう今日が最後かもしれません。だいぶ散って来てしまっていますからね」
生駒はそう言って姫の気を引こうとしたが、今日ばかりは姫は本当に物忌してもいいような気持だった。一人で色々考えごとをしたい気分になっていたから。
ところがそこに女童が生駒を呼びにきた。このところ生駒が呼ばれるのは白楽天の君からお文が来た時と決まっているので、いっぺんに姫はそわそわし始める。
けれど生駒はちょっと浮かない表情で、かわりに誰か文を受け取りに行かないだろうかと周りの女房を見渡した。でも、姫へのお文の文使いは、あの隼人と言う従者だと皆知っているので、生駒に遠慮して誰も視線を合わせようとしない。生駒は仕方なくいつものように隼人から文を受け取りに行った。
東の対の渡殿近く、人のいない端近な御簾の向こうに、隼人はいつも通り待っていた。生駒は御簾の内側から声をかける。
「お待たせいたしました。少将殿からのお文ですね?」
「ええ、でも今日はその前にお聞きしたい事が」
隼人の声がぐっと低くなったので、生駒は緊張した。
「昨夜、粗末な狩衣姿で、盗賊の男を追っていたのはあなたですね?」
やはり気付かれていた。でもなぜだろう? 生駒は用心深く答える。
「何のお話かしら? 昨夜は私、ずっと曹司で休んでおりましたけど」
「今、このあたりに人はいません。嘘は御無用でしょう。私はあなたと御簾も几帳もはさまずに会った事がある。あなたの目は一度見たら忘れ難い目をしている。あなたの心の火を表すような目だ。昨夜私はその目を見たのです」
「そんなに女の目を見慣れていらっしゃるの? 女の目など似たような人も多いのよ。どちらでそんな素晴らしい目の方にお逢いしたのかしら?」
そう言って生駒は御簾越しではあったが、「ふふふ」と笑って見せた。
「茶化しても無駄ですよ。それこそ私は今までに色々な女房とこうやって御簾越しでお会いしているんです。顔や姿の見えぬ相手でも、気配でどなたかが分かる。特にあなたのその手だ」
「手?」顔は布で隠せても、手までは隠しおおせない。
「あなたの手は他の女性より少し指が長いのです。昨夜あなたはとっさに顔に手をやった。その指と夜目にもはっきり見えるほど白いその手は間違いなくあなたの手でしょう。それにほんのわずかだが香の香りもした」
「香が……」衣を変え、髪をくくり隠しても、この身や髪に浸みこんだ匂いは漂ったのか。
「今の匂いとは違います。今の匂いは昨夜の香よりもっと甘い。けれど私は昨夜の匂いを知っている。以前あなたと曹司でお会いした時、昨夜と同じ匂いを嗅ぎました。あなたの香りは独特だ。普段の甘い香りでさえも、その中にどこか涼しいような匂いが混じっている。そして私と会った時の香りは、その涼しい匂いが強く感じられました。昨夜の匂いは間違いなくあなたのものだ。あなたもあの時思ったのでしょう? 私があなたに気付いたと」
ここまで悟られては生駒は何も言えなかった。確かに隼人の言うとおり、生駒は香の合わせが得意で、ありきたりな「梅花香」などでは飽き足らず、薄荷や丁子などを微妙に合わせて、甘い香りの中に涼しさや香ばしさを加えて使っていた。
姫の御前や侍女たちといるときは、ほど良い甘さで人の心を和らげ、男から話を聞きだそうとする時は、より、甘い香りを引き立てる。けれど、以前隼人と会った時や、昨夜のように大納言殿と話をする時は、自分を励ますように涼やかさを強くした香を身にまとうようにしていた。昨夜は着替えた後も大納言殿と話をしていたので、その香りが移ってしまっていたのだ。
「なぜ、あなたがあんなことを」
「あんなこと? 私があの男を追うのは、当然のことじゃありませんか」
生駒は急に無性に腹ただしくなった。
「女の手の先まで良く知っている、たった一度嗅いだ匂いにも敏感に反応できる勘の良さと観察力を持っていながら、私が母の仇を追う事がおかしいとおっしゃるの? あの男は私の人生を狂わせ、あなたの人生も狂わせた、憎い男なのよ。あの男のために私達と同じような人生を送っている人が、きっとほかにも大勢いるわ。その男が許せないというのは、当たり前のことでしょう?」
「その気持ちは分かる。だから私もあいつを追っている。私が最初に売られた邸は、検非違使の別当の邸だった。検非違使の別当は今の中納言殿だ。今も検非違使別当の職を兼任なさっている。だが……」
隼人は急に口をつぐんだ。ここで話せる事柄ではないようだ。
「今夜は少将殿がこちらの邸に参ります。大納言殿にお会いした後、姫君の東の対にも御挨拶に伺う事になっています。今日のお文はその御知らせをするためのものです。もちろん私もつき従う。その後私と曹司で会っていただきたい」
「私を説得するつもり? 無駄よ。私はあなたに会う必要はないわ」
「あなたの正体をどなたかの侍女に話してもいいんですか?」
隼人の目が鋭くなってそう言った。
「話しても何の証拠もないわ」
「だが噂は立つでしょう。私はそういう事が得意です。侍女の世界での噂の恐ろしさは、あなたの方がよくご存じでしょう?」
隼人は自信ありげにそう言う。これまでにもこうやって、人を脅して色々聞きだしたり、上手く丸めこんだりして来たのだろう。こういう事にもの慣れた感じがするのだ。
「本当にあなた、良い生き方をしてこなかったのね」
遠慮も気遣いもかなぐり捨てて、生駒はそう言った。
「それはお互い様だと思うのですが。でもあなたのやり方は危険だ」
「もう、余計な話はよしましょう。姫様の所に戻らないと。お文をお預かりしますわ」
生駒は話を切り上げた。どうせ会わなくてはならないのなら、後で話を聞かされることになる。今はこれ以上、説教じみた話など聞きたくなかった。
「文はこちらに。確かにお預けします。では、主従ともども、今夜お会いできることを楽しみにしております」
隼人はそんな皮肉交じりの言葉を残して去っていった。
生駒は姫の所に戻り、少将殿のお文をお渡しする。姫は待ちきれないようにお文を開き、読んでしまうとすぐさま返事を書きはじめた。それを見て乳母が、
「姫様。そんなに慌てたようにお返事なさっては、はしたなく思われますよ。お返事は少し間をおいて、御心を静められてから書かれるのが奥ゆかしいのです」と咎めた。
「あら。そんな事言っても駄目よ。誤魔化されないわ。乳母が言いたいのは男君にはそういう時にちょっとお待たせして、こっちに関心を持っていただこう。って言いたいんでしょ? でもわたくしたちは違うの。白楽天の君はそんなことで気を引かれるお馬鹿さんではないし、わたくしはその時の率直な気持ちを文にしたためるのが好きなの。白楽天の君も、そういうお文を望んでいるのよ。それにさっきまで生駒がお文を受け取るのに随分時間がかかっていたんだもの。わたくし、待ちくたびれてしまったの。白楽天の君はもっと待ちわびていらっしゃるわ。今日の罪は生駒にあるのよ」姫はそう言って生駒に膨れて見せた。
「申し訳ございません。すぐにお返事をお渡ししますわ」
「ええ、使者にも急いでもらってね。今夜は白楽天の君がこちらにいらっしゃるんだわ! わたくしも御簾の外に出られればいいのに」
「それは無理でございますよ、姫様。まだ、御結婚前でいらっしゃるのに」
乳母が驚いたように口をはさむと、
「分かってるったら。私は几帳の中の薄縁から、身じろぎだってしません。声も立ててはいけないのでしょう?」
「分かっておられるのなら、そういう事は言わないでくださいませんか? この乳母の寿命が縮んでしまいます」
乳母は泣きごとを言うが、姫は楽しそうに笑っていらっしゃる。やはり今夜の御挨拶が楽しみでいらっしゃるようだ。
「では、姫様がお利口でいられるように、この生駒が姫様に私の得意の香の合わせをお教えいたしましょう」生駒がそう言ってほほ笑んだ。
「ほんとう? 生駒のあの、甘くて涼しくて、ちょっとだけ深い木々の様な香りのする、あの香の合わせ方を教えてくれるの?」
「ええ。これは他の誰にも教えない、生駒だけの特別な香りですわ。でも、姫様にはお教えしましょう」
姫は瞳を輝かせて喜んでいる。
「ああ、今日は忙しいわ。良い歌をいくつか作って、生駒に香の合わせを習って。琵琶も練習しておかないと。ようやく白楽天の君に聞いていただけるのだもの」
「少将殿が姫の琵琶をご所望されるのですか?」乳母がそう聞くと、
「今お文に書いたもの。わたくしの琵琶をお聞きになってって」
「姫様! 御自分からそのようにはっきりお書きになっては、はしたない!」
乳母が慌ててたった今書き終えたばかりの文を、姫から奪い取ろうとすると、姫はそれをひょいとかわしながら、
「冗談よ。『昔の音を忍ぶ』と書いただけ。でもこれであの君は分かって下さるわ。わたくしが君に琵琶を聞かせたくって、うずうずしてるってね」
そう言って姫は楽しげに笑われた。この明るい姫に、自分の持っているあらゆることをお伝えしておこうと生駒は思う。
もしかしたらいつまでも、この邸にはいられないかもしれないと思いながら。
挨拶の席でも姿を見せないどころか、声すら聞かせない。
実に面倒ですが当時は女性が恋を待つ文化です。
関係を結んでも、結婚しても、相手の心がよそに移ろうとも追いかける事が出来ません。
男君は何人でも妻が持てますし、愛人も、恋人も作る事ができますから、追いかけるような女性にかまう必要がないのです。
一つ間違えば女性は傷つけられたまま終わってしまいます。
だから政略結婚であろうとも、ここまで慎重になるんですね。
当時の恋の駆け引き。女性側は必死だったことでしょう。




