楽園の崩壊とフラッシュの残像(冴島恭介 視点)
手錠の冷たい感触が、まだ手首に残っている気がする。留置場の固いベッドに横たわりながら、俺、冴島恭介は、天井のシミをぼんやりと眺めていた。どうして、こうなった? 完璧だったはずの俺の楽園は、なぜこうもあっけなく崩れ落ちてしまったんだ?
俺にとって、女子生徒というのは熟し始める前の、最高に美味い果実だった。純粋で、多感で、少し大人の世界に背伸びをしたいと思っている、危うい存在。そこに、教師という絶対的な権力と、面倒見の良い優しい大人という仮面を被って近づけば、彼女たちは面白いように懐いてきた。
「君にしか、この悩みは打ち明けられないんだ」
「先生は、君の才能を誰よりも信じている」
そんなありきたりの言葉を、特別な響きを持たせて囁いてやるだけでいい。進路や将来への不安を煽り、そこに救いの手を差し伸べるフリをする。そうすれば、彼女たちは俺を「唯一の理解者」だと信じ込み、心も、身体も、そして財布さえも、喜んで差し出してきた。
もちろん、リスク管理は怠らなかった。決して無理強いはしない。あくまで彼女たちが自らの意志で俺に尽くしている、という形を徹底する。証拠など残さない。万が一、噂が立っても「生徒思いの熱心な教師への嫉妬」や「多感な時期の女子生徒の思い込み」で片付けられるように、学校側にもうまく立ち回ってきた。校長や教頭も、事を荒立てたくない事なかれ主義の人間ばかりだ。俺の楽園は、鉄壁のはずだった。
水瀬紗雪も、そんな「果実」の一つになるはずだった。写真部の織部慧の恋人。献身的で、思い込みが激しく、少し頭のネジが緩んでいる。これほど御しやすい獲物はいない。
「慧くんのため」
その一言を餌にすれば、彼女は何でもした。俺は、彼女の純粋さを利用して、恋人である織部を精神的に追い詰めていくゲームを楽しんですらいた。彼女が俺に貢いだ金で買った機材を、織部がどんな顔で受け取るのか。彼女が俺の受け売りの言葉で、織部の作品を否定する時、彼はどんな反応をするのか。想像するだけで、背筋がゾクゾクした。嫉妬と優越感がないまぜになった、最高の娯楽だった。
紗雪の身体を奪った時も、罪悪感など微塵もなかった。「これも慧くんのため」という呪文で、彼女は自分自身を納得させていた。なんて愚かで、愛おしい人形だろう。
すべてが、俺の筋書き通りに進んでいた。織部はスランプに陥り、紗雪は完全に俺の支配下にあった。コンクールが終われば、紗雪には適当な理由をつけて別れを告げ、また新しい「果実」を探せばいい。そう、思っていた。
あのフラッシュの光を見るまでは。
授賞式のロビー。いつものように、次のターゲットに定めた女子生徒に甘い言葉を囁いていた、その時だった。視界が真っ白になるほどの、強烈な閃光。一瞬、何が起きたのかわからなかった。目が眩み、我に返った時、そこに立っていたのは、あの織部慧だった。
カメラを構えたまま、氷のように冷たい目で俺を見つめる、あのガキ。その目を見た瞬間、俺の全身を悪寒が駆け巡った。あれは、ただの生徒の目じゃない。すべてを知り、計算し尽くした者の、冷徹な捕食者の目だ。
まさか。こいつ、いつから? 気づいていたのか?
俺の頭の中で警報が鳴り響いたが、もう遅かった。式典会場に戻ると、すぐに警察がやってきた。俺の前に突きつけられた、今しがた撮られたばかりの写真。そして、次々と読み上げられる容疑。
すべてが、あのガキの仕業だと、すぐに理解した。あいつは、俺が紗雪に近づいた時から、あるいはもっと前から、すべてを知っていたんだ。そして、ただ黙って、俺が自ら破滅へと向かうための証拠を、一つ一つ集めていたのだ。俺が紗雪をコントロールしていると思っていたゲームは、実際には、巨大な盤上で俺自身が踊らされているに過ぎなかった。俺が楽しんでいたはずの優越感は、すべてあいつに仕組まれた、惨めな道化の舞だったのだ。
手錠をかけられ、連行される時、紗雪の呆然とした顔が見えた。愚かな女だ。お前のその献身が、お前の愛する男の復讐を完成させ、そして俺をここに叩き込んだんだ。お前は誰一人救えず、ただすべてを破壊しただけなんだよ。
今、この薄暗い独房で、俺の脳裏に焼き付いて離れないのは、警察でも、泣き崩れる紗雪でもない。
あの時、俺に向けられた織部慧の、あの冷たい目だ。
そして、俺の楽園のすべてを焼き尽くした、あの断罪のフラッシュの残像だ。
俺は、ただの高校生だと思っていたガキに、完膚なきまでに敗北した。俺が積み上げてきたすべては、あいつのたった一枚の写真によって、粉々に砕け散った。
「クソッ……!」
思わず、壁を殴りつける。鈍い痛みが拳に走るが、心の痛みは少しも和らがない。ここから出た後、俺に何が残っている? 職も、名声も、楽園も、すべて失った。残っているのは、社会的な死と、莫大な慰謝料の請求だけだ。
天井のシミが、嘲笑うように俺を見下ろしている。ああ、そうか。俺は、自分が一番得意だと思っていたゲームで、完敗したんだ。純粋な心を弄び、支配するゲーム。そのゲームで、俺は、俺自身が最も愚かなプレイヤーだったというわけだ。
フラッシュの残像が、また瞼の裏で白く弾けた。あの光は、きっと一生、俺を苛み続けるだろう。楽園の終わりを告げた、地獄の始まりの光として。




