私が壊した万華鏡(水瀬紗雪 視点)
世界は、灰色だった。あの日、慧くんに屋上で別れを告げられてから、私の目に映るすべてのものから色彩が抜け落ちてしまったみたいだった。ざわめく教室も、窓から見える青空も、友達の笑い声も、すべてがすりガラスの向こう側にあるようで、現実感がなかった。
どうして、こうなってしまったんだろう。
授業も上の空で、ノートの隅に何度も同じ言葉を書きつけては、消した。
『慧くんのため』
それは、私にとって聖なる祈りのような言葉だった。慧くんの才能を、私は誰よりも信じていた。彼の撮る写真は、どこか寂しげで、でも、世界のほんの些細な美しさや儚さを見逃さない、特別な力を持っていた。彼の隣にいることが、私の誇りだった。
だから、彼がコンクールのことでスランプに陥り、苦しんでいる姿を見るのがたまらなく辛かった。何か私にできることはないか。その一心で、私は冴島先生に相談を持ち掛けた。
「慧くんを成功させるための、二人だけの秘密のプロジェクトだ」
先生はそう言って、私を特別な共犯者のように扱ってくれた。慧くんの才能を一番に考えてくれている、熱心で優しい先生。朱音の忠告なんて、ただの嫉妬や思い込みに過ぎない。私だけが、慧くんの本当の苦しみを理解し、彼を救うことができるんだ。そう信じて疑わなかった。
「彼の作品はもっと評価されるべきだ。そのためには、審査員に顔を売っておく必要がある。少し交際費がかかるんだ」
「彼を精神的に解放するには、まず君が心も身体も解放されなければならない。すべては彼のためなんだ」
先生の言葉は、いつも「慧くんのため」という魔法の枕詞で飾られていた。その魔法にかかった私は、何の疑いも持たなかった。親の財布からお金を盗むことへの罪悪感も、先生に身体を預けることへの抵抗も、「慧くんを成功させるための試練」なのだと思えば、耐えることができた。むしろ、私だけが背負える特別な痛みなのだと、どこか誇らしくさえ感じていた。
私が先生経由で手に入れた高価な機材を渡すたび、慧くんは複雑な顔をしたけれど、私は「これでまた一歩、成功に近づいたね」と無邪気に喜んでいた。彼の作風に口出しした時も、彼が少し黙り込んでしまったのも、「新しい視点に戸惑っているだけ。すぐに良さに気づいてくれるはず」と、自分に都合よく解釈していた。
私の目に映る慧くんは、少しずつ元気をなくしていくように見えたけれど、それすらも「大きな飛躍の前の産みの苦しみ」なのだと思い込んでいた。私の献身が、彼を追い詰めているなんて、夢にも思わなかった。
そして、授賞式の日。すべてが崩れ落ちた。
警察官に連行されていく冴島先生。パニックに陥る会場。そして、その地獄絵図を、氷のように冷たい目で見つめる慧くん。
何が起こったのか、すぐには理解できなかった。でも、後から朱音が教えてくれた断片的な情報と、世間に溢れるニュースが、私の頭の中でパズルみたいに組み合わさっていった時、私はようやく、自分が作り上げてきた世界のすべてが、巨大な嘘と欺瞞の上に成り立っていたことを知った。
私の「献身」は、ただ冴島先生の欲望を満たすための道具だった。
私の「純粋」な想いは、慧くんを深く傷つける刃だった。
私が信じた「正義」は、何より愚かで醜い、独りよがりの勘違いだった。
屋上で慧くんに言われた言葉が、何度も頭の中で反響する。
『君のその愚かな献身が、あの男を社会的に抹殺するための、最高の証拠になった』
『ありがとう』
違う。違う。私は、そんなつもりじゃなかった。ただ、あなたの隣で笑っていたかっただけ。あなたの力になりたかっただけ。あなたの撮る写真が、世界で一番好きだったから。
でも、もうその想いは、どこにも届かない。私が壊してしまったのだから。
慧くんと私の、ささやかで、でもきらきらと輝いていた時間を。まるで、美しい万華鏡を床に叩きつけて、粉々に砕いてしまったみたいに。
学校では、私は「被害者」として扱われた。冴島先生に騙された可哀想な生徒。でも、本当は違う。私は加害者だ。慧くんの心を、未来を、めちゃくちゃに壊した、紛れもない加害者。その事実に気づいているのは、きっと私と、慧くんと、そして朱音だけだ。
事件の後、朱音は一度だけ、私の家に来てくれた。
「あんたの馬鹿さ加減には心底呆れたけど……」
そう言って、言葉に詰まりながらも、彼女は私の背中をさすってくれた。
「……もう、終わりにしな。自分を責めるのも、慧に許してもらおうとするのも。あんたがすべきことは、自分の足でちゃんと立つことだよ」
朱音の言葉は正しかった。でも、どうすればいいのかわからなかった。
あの日以来、私は写真をまともに見ることができなくなった。街角のポスターも、雑誌のグラビアも、友達がスマートフォンで見せてくれる画像でさえ、私には慧くんの冷たい目を思い出させた。彼のファインダーが、私を断罪しているような気がして、息が詰まる。
今日、私は久しぶりに、慧くんの姿を遠くから見かけた。新しいカメラを首から下げて、一人で校庭の隅に咲く花にレンズを向けていた。その横顔は、私が知っている慧くんのままだったけれど、纏う空気は全く違っていた。彼はもう、彼の時間を歩き始めている。そこにはもう、私の居場所はない。
胸ポケットに、くしゃくしゃになったお守りが入っている。あの日、慧くんに渡せなかった、私の愚かさの象徴。それをぎゅっと握りしめる。
万華鏡は、一度壊れてしまったら、もう二度と同じ模様を描くことはない。
私が壊してしまった慧くんとの未来。
私が汚してしまった慧くんの世界。
私はこれから、この灰色の世界で、犯した罪の重さを一生抱えて生きていくのだ。許される日など、決して来ない。それでも、生きていかなければならない。それが、私が自分自身に科した、唯一の罰なのだから。
窓の外に目を向ける。夕日が、校舎をオレンジ色に染めていた。
かつて、慧くんと二人で並んで歩いた、あの日の廊下と同じ色。
でも、その色はもう、私にとって温かいものではなかった。ただ、燃え尽きていく過去の色にしか見えなかった。




