第四話 君のいないセピア色の未来
冴島恭介の逮捕は、瞬く間に学校中を、そして世間を駆け巡った。人気教師の裏の顔、複数の女子生徒への性的・金銭的要求、そして学校側の隠蔽体質。マスコミは連日スキャンダラスに事件を報じ、すべてが白日の下に晒された。
事件の全貌が明らかになるにつれて、水瀬紗雪は、自分が一体何をしていたのかを、ようやく理解し始めた。慧のためだと信じて行ってきた自分の行動のすべて。冴島に渡したお金は、他の女子生徒から搾取したものだったかもしれないこと。慧の作品世界を否定するような口出しは、冴島の歪んだ価値観の受け売りでしかなかったこと。そして、何よりも、慧を成功させるための「試練」だと信じて疑わなかった肉体関係は、ただの卑劣な性被害でしかなかったこと。
その一つ一つが、鋭い刃となって紗雪の心を突き刺した。彼女の純粋な「献身」は、愛する人を助けるどころか、彼の心を深く傷つけ、彼の世界を汚し、そして何より、彼自身の手によって、冴島を断罪するための最も強力な「証拠」として利用された。自分が信じた正義が、最も残酷な形で裏返るという皮肉な現実。紗雪は、その事実の重みに耐えきれず、自室でただ泣き崩れることしかできなかった。
数日後、僕からの短いメッセージが、紗雪のスマートフォンに届いた。
『放課後、屋上で待っている』
紗雪は、震える足で校舎の階段を上った。扉を開けると、冷たい風が吹き付ける。フェンス際に、僕が一人で立っていた。その背中は、以前よりもずっと大きく、そしてひどく冷たく見えた。
「慧、くん……」
僕がゆっくりと振り返る。その瞳には、かつて紗雪に向けられていた温かい光は微塵もなかった。ただ、底なしの静寂と、氷のような冷たさが広がっているだけだった。
「ごめんなさい……! 本当に、ごめんなさい……!」
紗雪は僕の前に駆け寄ると、堰を切ったように泣きじゃくりながら、何度も頭を下げた。
「私、知らなくて……! 慧くんのためだって、本当に、そう信じてて……! 騙されてたなんて、気づかなくて……! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
許しを請う言葉が、途切れ途切れに紡がれる。彼女は、僕がすべてを知った上で、自分を許してくれるかもしれないという、最後の僅かな希望に縋っていた。
僕は、そんな彼女を表情一つ変えずに見下ろしていた。やがて、その嗚咽が少しだけ途切れたタイミングで、静かに口を開いた。
「君が僕のためにしてくれたこと、一つだけあったよ」
その予期せぬ言葉に、紗雪はハッとして顔を上げた。涙に濡れた瞳が、かすかな希望の色を帯びる。もしかしたら、彼は。
だが、続く僕の言葉は、その淡い期待を無慈悲に打ち砕いた。
「君のその愚かな献身が、あの男を社会的に抹殺するための、最高の証拠になった。君が愚かにも彼の言いなりになってくれたおかげで、僕は完璧な証拠を揃えることができたんだ。君がいなければ、僕の復讐は完成しなかっただろう」
紗雪の顔から、さっと血の気が引いていく。僕が何を言っているのか、理解が追いつかないようだった。
「その点だけは感謝するよ。僕の復讐の、一番の功労者だ。ありがとう」
ありがとう。その言葉は、どんな罵詈雑言よりも鋭く、紗雪の心を抉った。自分が愛する人のために捧げたすべてが、彼の復讐のための道具でしかなかった。自分は、彼を救うどころか、彼の復讐劇の駒として、最後まで踊らされていたに過ぎなかったのだ。
絶望が、紗雪の表情を黒く塗りつぶしていく。僕は、そんな彼女に背を向け、屋上の出口へと歩き出した。そして、ドアノブに手をかけ、最後に一度だけ振り返る。
「さようなら、僕の『聖女』様」
その言葉は、冷たい風に乗って、彼女の耳に突き刺さった。それは、二人の関係に下された、最終的な死刑宣告だった。
バタン、と重い金属の扉が閉まる音。屋上に一人取り残された紗雪は、その場に崩れ落ちた。愛する人への想いが、最も残酷な形で裏切りとなり、彼を深く傷つけ、彼の復讐を完成させた。自分の純粋さは、誰一人救うことなく、ただ自分自身と愛した人の未来を、修復不可能なまでに破壊しただけだった。
虚ろな彼女の手の中には、コンクールの授賞式の日に握りしめていた、慧への手作りのお守りが、今もまだ虚しく握られていた。それは、もはや愛情の証ではなく、彼女の取り返しのつかない愚かさの象徴でしかなかった。空っぽの心が、悲鳴さえも上げられずに、ただただ絶望の底へと沈んでいく。
一方、僕は学校を後にし、自宅へと向かっていた。部屋に戻ると、今回の復讐のために使ったすべての機材――小型カメラ、ピンマイク、そして膨大な証拠データが保存されたハードディスク――を、大きな段ボール箱に詰めた。そこには、かつて紗雪と撮った写真も、彼女からもらったプレゼントも、すべてが含まれている。
僕はその箱にガムテープで厳重に封をすると、叔父に連絡を取り、証拠品として警察に引き渡してもらう手筈を整えた。過去のすべてを、物理的に手放す必要があった。
そして、机の上に置いてあった、僕の愛機だった一眼レフカメラを手に取る。このカメラは、紗雪との幸せな時間も、彼女の裏切りも、僕の復讐のすべてを記録してきた。そのファインダーを覗き込むと、セピア色に変色した思い出が次々と蘇り、胸が締め付けられる。
僕はそのカメラも、段ボール箱の中に静かに入れた。
失ったものは、あまりにも大きい。恋人も、信じる心も、写真に純粋に向き合っていた自分自身も。胸に開いた穴は、簡単には埋まらないだろう。
翌日、僕は叔父から受け取った慰謝料の一部を握りしめ、カメラショップに向かった。そして、今まで使っていたものとは違うメーカーの、新しいミラーレスカメラを一台購入した。
ずしりと重いその感触が、妙に心地よかった。
自宅に戻り、真新しいカメラを手に、窓の外に広がる見慣れた街並みにレンズを向ける。ファインダーの先に広がる世界は、昨日までと何も変わらない。けれど、僕の目には、もう偽りの愛や裏切りに汚されたフィルターはかかっていなかった。
僕は自らの手で、過去を清算したのだ。
これから僕が撮る写真は、どんな色をしているのだろう。まだ、わからない。けれど、セピア色の思い出を振り切り、新たな未来を写し出すために、僕はもう一度、シャッターを切る。
カシャッ。
乾いた電子音が、静かな部屋に響き渡った。それは、僕の新しい人生の始まりを告げる、産声のようにも聞こえた。




