第二話 君が壊したファインダー越しの世界
あの日以来、僕の世界は静かに、しかし確実に歪み始めていた。紗雪から手渡された単焦点レンズは、僕の机の上で冷たい存在感を放っている。
「どうかな、慧くん。これ、使ってみて。冴島先生にも相談して、慧くんに一番合うものを選んでもらったんだ」
そう言ってレンズを差し出した時の紗雪の顔は、純粋な善意と期待に満ちていた。僕は何も言えず、ただ「ありがとう」とだけ返した。そのレンズを使う気には到底なれず、それはまるで僕の心を蝕む異物のように感じられた。
紗雪の「献身」は、それから日に日にエスカレートしていった。ある時は最新のストロボを、またある時は高性能な露出計を、「冴島先生が協力してくれたの」という言葉と共に僕に渡してきた。彼女がどこからそんな大金を得ているのか、考えたくもなかった。ただ、紗雪の行動の裏で、冴島という男の影がちらついていることだけは確かだった。
そして、紗雪の変化は機材のプレゼントだけに留まらなかった。
「ねえ、慧くん。冴島先生が言ってたんだけど、コンクールで賞を獲るには、もっとわかりやすいテーマの方がいいんだって。例えば、友情とか、家族愛とか……。慧くんの写真は少し暗すぎるから、もっと明るい希望に満ちたものにしない?」
部室で一人、セレクト作業をしている僕の隣に座り、彼女はそう言った。その口調は、あくまで僕を心配する優しいものだ。だが、その言葉の一つ一つが、僕が大切にしてきた写真の世界観を無遠慮に踏み荒らしていく。僕が撮りたいのは、光の中に潜む影であり、日常に隠された非日常の断片だ。安易な「希望」などではない。
「紗雪、僕には僕の撮りたいものがある」
「でも、このままじゃ慧くんのスランプは抜け出せないよ! 先生は、慧くんの才能を一番に考えてくれてるんだよ? 少しは聞いてみてもいいんじゃないかな」
「……そうだな」
僕はそれ以上、何も言わなかった。反論すれば、彼女はもっと頑なになるだけだろう。紗雪の目は、盲目的なまでに冴島という男を信じきっていた。僕の声は、もう彼女には届かない。彼女は「慧のため」という魔法の言葉を盾に、僕の心を少しずつ壊していく。僕のファインダー越しに見えていたはずの、美しくも儚い世界は、彼女の「善意」によってノイズまみれになっていった。
深い絶望と、裏切られたことへの静かな怒りが、僕の中でゆっくりと形を変えていくのを自覚した。それは、もはや悲しみではなかった。冷たく、硬質で、研ぎ澄まされた刃物のような感情。――復讐心。
僕が愛した水瀬紗雪は、もうどこにもいない。ならば、僕がすべきことは一つだけだ。
僕はまず、親友の朱音にすべてを打ち明けることにした。放課後の空き教室で、僕は朱音に、あの日撮影した紗雪と冴島の写真を見せた。
「……やっぱり。私の勘は当たってたんだ」
朱音は写真から目を離すと、悔しそうに唇を噛んだ。
「ごめん、慧。もっと強く紗雪を止めていれば……」
「朱音のせいじゃない。あいつはもう、誰の言葉も聞かないだろうから」
僕の冷静な声に、朱音は驚いたように顔を上げた。
「慧、あんた……まさか、このまま黙ってるつもりじゃないよね?」
「黙ってる? まさか」
僕は静かにスマートフォンの画面を操作し、別の画像を見せた。それは、ここ数日で僕が集めた「証拠」の一部だった。紗雪が冴島からレンズを受け取った日の写真。そして、先日、紗雪が誰かと電話をしながらATMでお金を引き出している写真。電話の相手がおそらく冴島であることは、会話の断片から明らかだった。
「これは……あんたが撮ったの?」
「ああ。僕の写真の技術は、こういう時に役に立つらしい」
自嘲気味に笑う僕を見て、朱音は息を呑んだ。
「慧……あんた、まさか……」
「二人を、破滅させる」
僕の口から滑り出た言葉は、自分でも驚くほど冷たく響いた。「冴島はもちろん、紗雪にも、自分のしたことの愚かさを骨の髄まで思い知らせてやる。そのためには、もっと決定的な証拠が必要だ。朱音、協力してくれないか」
僕の目を見て、朱音はしばらく何かを考えていたが、やがて固い決意を秘めた表情で頷いた。
「……わかった。協力する。私も、あんな奴らに紗雪をめちゃくちゃにされたままじゃいられない。冴島の被害者、他にもいるかもしれない。心当たりの子に、それとなく話を聞いてみる」
「ありがとう、朱音。助かる」
僕たちの間に、共犯者としての奇妙な連帯感が生まれた。
そこからの僕は、まるで別の人間になったかのようだった。写真家としての僕の観察眼と技術は、すべて復讐のために注ぎ込まれた。
秋葉原で小型のピンマイクとボタン型のカメラを買い揃え、まず写真部の部室と、冴島が頻繁に利用する美術準備室に、誰にも気づかれないよう巧妙に仕掛けた。準備室の鍵は職員室で管理されているが、部活の備品を取り出すという名目を使えば、短時間借り出すことは難しくなかった。
ボタン型カメラは、普段使っているカメラバッグのストラップに仕込んだ。これで、僕自身が動く証拠収集装置になった。
ある日の放課後、僕は朱音からの連絡を受け、校舎裏の駐輪場に向かった。物陰から様子を窺うと、冴島が紗雪に何かを手渡しているのが見えた。
「これを、慧くんに。僕からのプレゼントということにしておきなさい。君がお金を工面してくれていることは、彼には内緒だ。男のプライドを傷つけかねないからね」
「はい、先生……。でも、私の貯金も、もうほとんど……」
「大丈夫。これは慧くんへの投資なんだ。彼が成功すれば、何倍にもなって返ってくる。君の愛が試されているんだよ、紗雪さん」
甘い言葉で、冴島は紗雪の不安を巧みに打ち消す。紗雪はこくりと頷き、小さな封筒を冴島に渡した。中身はおそらく現金だろう。親の財布から盗んだのか、あるいは……。僕はカメラバッグのストラップに仕込んだボタン型カメラの角度を微調整し、その金銭の受け渡しの一部始終を、表情まではっきりとわかる距離で記録した。
僕の耳に装着した、指向性の集音マイクを兼ねたワイヤレスイヤホンが、二人の会話を生々しく拾い上げる。
「それで、例の件は考えてくれたかい? 慧くんの心を完全に解放するためには、まず君自身が心も身体も解放されなければならない。それは、彼のためなんだ。僕が手伝ってあげる」
その言葉を聞いた瞬間、僕の全身の血が逆流するような感覚に襲われた。身体を、解放する。その言葉が意味するものを、僕は理解してしまった。
紗雪は俯き、しばらく黙り込んでいた。だが、やがて顔を上げると、消え入りそうな声でこう言った。
「……慧くんのためなら」
その一言が、僕の中に残っていた最後の憐憫の情を完全に消し去った。
僕はファインダーを覗くことなく、ただ冷徹に、シャッターを切り続けた。愛した少女が、僕のためだと信じ込みながら、僕を裏切っていく姿。そのすべてを、僕自身の手で一枚一枚、データとして記録していく。それは、僕の心をナイフで少しずつ削り取っていくような、あまりにも残酷で孤独な作業だった。
朱音の調査も進んでいた。彼女は、元写真部員で不登校になった三年生の先輩や、最近急に派手なブランド品を持ち始めた美術部の後輩など、複数の生徒に接触していた。彼女たちの口から語られたのは、進路相談を名目に個室に呼び出され、不必要な身体的接触をされたことや、「画材を買う」という名目で金銭を要求されたことなど、冴島の卑劣な手口の数々だった。しかし、誰もが「先生に逆らったら内申書に響く」「親に知られたくない」という恐怖から、声を上げられずにいた。朱音は彼女たちを根気強く説得し、匿名を条件に証言を集めてくれた。
僕はそれらの証言と、僕が撮りためた映像や録音データを、日付と時間を正確に記録した上で、外付けのハードディスクにバックアップしていく。冴島と紗雪の密会。金銭の授受。そして、冴島が他の女子生徒に言い寄る現場。証拠は着実に、しかし静かに積み上がっていった。
ある晩、僕は自室のパソコンで、美術準備室に仕掛けた小型カメラの映像を確認していた。画面に映し出されたのは、誰もいない放課後の準備室。やがてドアが開き、冴島と紗雪が入ってきた。
僕は思わず息を呑んだ。これから何が起こるのか、知りたくないのに、目を逸らすことができなかった。
冴島は紗雪の肩に手を置き、甘い言葉を囁いている。紗雪は抵抗することなく、されるがままになっている。その瞳は虚ろで、まるで操り人形のようだ。
「……これでいいんだ、紗雪さん。すべては、慧くんのためなんだから」
その言葉を合図に、冴島は紗雪の身体に腕を回した。
僕は、無言で録画停止ボタンをクリックした。
画面は真っ暗になったが、僕の脳裏には、愛した少女が他の男に抱かれる光景が焼き付いて離れなかった。吐き気がこみ上げてくる。だが、涙は一滴も出なかった。代わりに、心の奥底で何かがぷつりと切れる音がした。
僕は立ち上がり、壁に貼ってあった紗雪とのツーショット写真を、何の感情もなく引き剥がした。そして、それをくしゃくしゃに丸め、ゴミ箱に叩きつけた。
もはや、躊躇う必要はない。
コンクールの作品提出締切日まで、あと二週間。僕が撮るべき被写体は、もう決まっていた。




