第一話 偽りの献身とシャッターの音
西日に染まる校舎の廊下は、どこか現実離れしたオレンジ色に満ちていた。ざわめきが遠のき、一日の終わりを告げる静けさが支配する中、僕、織部慧は、空になった弁当箱を洗い終えた恋人、水瀬紗雪と並んで歩いていた。
「慧くん、今日の部活も頑張ってね。私も教室で課題やってるから」
「ああ。ありがとう、紗雪」
僕の隣で微笑む彼女の髪が、窓から差し込む光を受けてキラキラと輝く。ごくありふれた放課後の風景。けれど、僕にとっては何よりも大切な時間だった。紗雪が隣にいる。それだけで、ファインダー越しに見る世界とはまた違う、温かくて柔らかな色彩が僕の日常に加わる気がした。
「コンクール、もうすぐだもんね。慧くんの写真、私、世界で一番好きだから。きっとすごい賞、獲れるよ」
屈託のない笑顔で、彼女はそう言ってくれる。その言葉が、どれだけ僕の支えになっているか、きっと彼女は知らないだろう。
僕が所属する写真部は、全国規模の写真コンクールでの入賞を目標に掲げる、いわゆる強豪校だ。去年の先輩は最優秀賞を獲得し、推薦で芸術系の大学へと進んだ。その背中を追いかけるように、僕もまた、シャッターを切る日々を送っている。
けれど、最近の僕は壁にぶつかっていた。撮っても、撮っても、何かが違う。自分の表現したいものが、薄い膜一枚を隔てた向こう側にあるような、もどかしい感覚。焦りだけが空回りし、レンズの先の世界が色褪せて見え始めていた。
「じゃあ、また後でね」
「うん。気をつけて」
二階の踊り場で紗雪と別れ、僕は一人、三階の奥にある部室へと向かった。ドアを開けると、薬品のツンとした匂いと、埃っぽい紙の匂いが混じり合った、独特の空気が鼻をつく。誰もいない部室で、僕は壁一面に貼り付けられた自分の作品を前に、深くため息をついた。
光と影。構図。被写体の選定。技術的には悪くないはずだ。なのに、どの写真も借り物の言葉で語っているような、上滑りした印象しか与えない。見る者の心を揺さぶるような、魂のこもった一枚が撮れない。
「……どうした、織部。難しい顔をして」
不意に背後から声をかけられ、僕は驚いて振り返った。そこに立っていたのは、爽やかな笑顔を浮かべた写真部顧問の冴島恭介だった。歳は三十代前半。担当教科は美術で、物腰が柔らかく面倒見もいいため、生徒からの人気は高い。
「冴島先生……。いえ、ちょっと行き詰まってまして」
「コンクールの件か。君の作品はいつもレベルが高いが、確かに最近は少し伸び悩んでいるように見えるな」
冴島は僕の隣に立つと、壁の写真を腕組みしながら眺めた。その目は、美術教師らしく鋭い。
「織部、君には技術もセンスもある。だが、決定的に足りないものがある」
「足りないもの、ですか?」
「ああ。被写体との距離だ。もっと内面に、魂に踏み込まないと、人の心を打つ写真は撮れないぞ。表面をなぞっているだけじゃ、ただの綺麗な絵葉書で終わってしまう」
それは、僕自身が漠然と感じていたことでもあった。だが、わかっていても、その踏み込み方がわからない。冴島の言葉は正論に聞こえたが、あまりに抽象的で、具体的な解決策を示してくれるわけではなかった。
「……はい。考えてみます」
曖昧に頷く僕の肩を、冴島はポンと軽く叩いた。
「焦るなよ。君ならできるさ」
そのやり取りを、開いたままの部室のドアの隙間から、誰かが見ていたことなど、その時の僕は知る由もなかった。
*
数日後の昼休みだった。僕は朱音と三人で弁当を広げていた。
「で、紗雪は最近、どうしてそんなに冴島先生と仲良しなわけ?」
唐突に、親友の桐谷朱音が尋ねた。朱音は紗雪の一番の親友であり、僕にとっても気心の知れた友人だ。思ったことはすぐに口にするが、その芯にはいつだって友人への愛情があることを僕は知っている。
「え? な、仲良いってわけじゃ……」
紗雪が動揺したように目を泳がせる。その反応に、朱音はさらに眉をひそめた。
「昨日も美術準備室で二人で話してたでしょ。この前も廊下で呼び止められてたし。ちょっと距離が近すぎるんじゃないの」
「それは……慧くんのことで相談に乗ってもらってるだけだよ」
「慧の?」
朱音の視線が僕に向く。僕は首を傾げるしかなかった。紗雪からそんな話は一切聞いていない。
「うん。慧くん、コンクールのことで悩んでるでしょ? だから、顧問の先生にアドバイスをもらえないかなって……」
「ふうん……」
朱音は納得していない顔で、じっと紗雪を見つめた。
「紗雪、あんたのためを思って言うけど、あの先生、あんまり関わらない方がいいよ。良くない噂、結構聞くから」
「良くない噂って?」
紗雪がむきになって聞き返す。
「特定の女子生徒と妙に親しいとか、進路相談を理由に二人きりになりたがるとか……。まあ、あくまで噂だけど。火のない所に煙は立たないって言うでしょ」
「そんなの、ただの僻みだよ! 冴島先生は熱心で、生徒思いのいい先生だもん!」
紗雪の声が少し大きくなる。その剣幕に、朱音は呆れたように肩をすくめた。
「あんたがそう思うなら、もう何も言わないけどさ。ただ、のめり込みすぎないように気をつけなよ。あんた、一回信じ込むと周りが見えなくなるところあるんだから」
「……大丈夫だよ。心配してくれてありがとう、朱音」
紗雪はそう言って無理やり笑顔を作ったが、その目にはどこか頑なな光が宿っていた。僕と朱音の間には、気まずい沈黙が流れた。
その日の放課後、紗雪は「慧くんを成功させるため」という、甘美で危険な響きを持つ言葉に誘われ、一人で美術準備室のドアをノックしていた。
「失礼します。冴島先生、いらっしゃいますか」
「おお、水瀬さんか。どうしたんだい?」
中から現れた冴島は、まるで彼女が来るのを待っていたかのように、にこやかに迎え入れた。
「あの、先日ご相談した、慧くんのことで……」
「ああ、織部のことか。彼、本当に才能があるからね。僕もなんとかしてやりたいと思っているんだ」
冴島の言葉に、紗雪の表情がぱっと明るくなる。
「本当ですか!?」
「もちろんさ。だが、彼のような繊細な才能を開花させるには、特別な刺激が必要なんだ。ありきたりな励ましやアドバイスじゃ、逆効果にさえなりかねない」
冴島は芝居がかった仕草でため息をつき、真剣な眼差しで紗雪を見つめた。
「そして、そのきっかけを作れるのは、世界でただ一人。彼のことを誰よりも理解し、一番近くにいる君だけだ」
「私、ですか……?」
「そう、君だ。僕がそのための方法を、君だけに教えてあげる。これは、慧くんをコンクールの頂点に押し上げるための、僕と君だけの秘密のプロジェクトだ。どうかな、協力してくれるかい?」
「慧くんのため……」紗雪はその言葉を反芻する。「秘密の、プロジェクト……」
それは、まるで自分が特別な使命を与えられたかのような錯覚を彼女に与えた。朱音の忠告は、嫉妬や無理解からくる雑音として、すでに彼女の意識の外へと追いやられていた。
「やります! 私にできることなら、何でもします!」
「いい返事だ。さすがだね、水瀬さん。君のその献身的な愛が、必ず彼を救うことになる」
冴島の口元に、誰にも気づかれない、満足げな笑みが浮かんだ。紗雪は、自分の純粋な想いが、巨大な蜘蛛の巣に絡め取られようとしていることに、まだ気づいていなかった。「朱音には慧くんの才能の大きさはわからない。これは彼を成功させるために、私にしかできないことなんだ」と、彼女は胸の中で強く自分に言い聞かせていた。
*
それから一週間ほど経っただろうか。僕はスランプから抜け出せないまま、部活の備品である三脚を壊してしまった。自分の不注意とはいえ、高価な機材だ。落ち込んでいると、冴島に「まあ、気に病むな。学校の備品だし、仕方ないさ」と慰められた。
その日の放課後、僕は新しい三脚の購入申請書を職員室に提出しに行った後、撮りためたデータを整理するために、いつもより遅い時間に部室へと足を運んだ。夕闇が迫る廊下はしんと静まり返っている。
写真部の部室の前にたどり着くと、ドアが数センチだけ開いていた。消し忘れた明かりが、細い光の筋となって廊下に漏れている。不用心だな、と思いながらドアに手をかけた、その時だった。
「――本当に、ありがとうございます、先生! これで慧くん、きっと喜んでくれます!」
聞き慣れた、弾むような声。紗雪だ。なぜ彼女が、この時間に部室に?
胸に小さな棘が刺さったような、不快な感覚が走る。
「いいんだよ。これも、僕らのプロジェクトの一環だからね。君から彼へのサプライズプレゼントだ。僕が少し援助してあげた。これがあれば、彼の作品はもっと良くなるはずだ」
今度は、冴島の穏やかな声が聞こえた。プロジェクト? サプライズプレゼント? 言葉の意味がうまく繋がらない。僕は咄嗟に身を翻し、廊下の死角になっている柱の陰に体を隠した。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
やがて、準備室のドアが軋む音と共に開き、二人が姿を現した。冴島、そして、彼のすぐ後ろに続く紗雪。二人の距離は、教師と生徒のそれにしては妙に近かった。そして、僕の目は、紗雪が胸に抱えるようにして持つ黒い箱に釘付けになった。
見覚えのあるメーカーのロゴ。あれは、僕が先日、カメラ雑誌の特集記事を見ながら「いつかこの単焦点レンズが手に入ったら、撮れる写真の幅が広がるんだけどな」と紗雪にこぼした、あの高価なレンズに違いない。なぜ、それを彼女が持っている? 冴島が援助した? いったい、どういうことだ。
頭の中で警報が鳴り響く。様々な疑問と、得体の知れない黒い感情が渦を巻き始める。紗雪は無邪気な笑顔を冴島に向けている。その笑顔は、いつも僕に向けられるものと何も変わらないように見えた。だが、その光景は僕の目には異質で、不気味なものにしか映らなかった。
感情に任せて飛び出し、二人を問い詰めるべきか。いや、違う。そんなことをすれば、きっと言いくるめられて終わりだ。僕の脳は、驚くほど冷静だった。この違和感の正体を、この胸騒ぎの根源を、確かめなければならない。
僕は衝動的に、肩にかけていた一眼レフカメラを静かに構えた。レンズキャップを外し、電源を入れる。ズームリングを回し、望遠側へ。ファインダーを覗くと、親密そうに言葉を交わす二人の姿が、くっきりとフレームの中に収まった。
まるで出来の悪いメロドラマのワンシーンだ。純粋な少女に言い寄る、人のいい教師の仮面を被った男。しかしファインダー越しの彼らは、僕にとっては紛れもない現実だった。
紗雪の頬が、気のせいか微かに紅潮しているように見えた。
ピントリングを回し、紗雪が抱えるレンズの箱に焦点を合わせる。そして、ゆっくりと、二人の表情へ。
指先に全神経を集中させる。
カシャッ。
ほとんど無音に近い、乾いたシャッター音が、静まり返った廊下に吸い込まれていった。
ファインダーの中で微笑む恋人と、その隣で満足げな表情を浮かべる男。その一枚の画像データが、僕の幸福な日常の終わりと、冷たく長い復讐劇の始まりを告げる、最初の記録になった。




