150「時間差(1)」
次の目覚めでは、アクセルさんの洋館の一室の天井を見ながら少し混乱していた。
寝て向こうで一日過ごしたという感覚はあるのだけど、記憶が抜け落ちたように全く何も覚えてなかった。
一部ではなく全部というのはかなりショックだ。
加えて、他にも幾つか認識できない事もあったと思うけど、それすら何が認識できないのか分からない状態だった。
そんな状態でも、半ば習慣で周囲の状況を確認する。
カーテン越しの窓の外は薄明るいが、雰囲気から翌朝ではない。夕方か夜もまだ浅い時間だ。
そして一日の記憶がないのは、オレがこっちでフライングして寝た事で起きたという事は理解できた。
そして双方の側に同じ『ダブル』がいる影響だという事も、今までの経験や知識から理解もできた。
けど、記憶がないのは意外にショックが大きくて、その後どうすればいいのかが分からず行動に移せなかった。
そして呆然としていると、部屋の扉がノックされる。2回なので日本人ノックだ。
そして返事を待たずに扉が開かれる。
「カーテン閉めたままで何してるの?」
「こういうのは聞かないのがマナーだよ。元気な男の子なんだから、溜まるものもあるよねー」
ボクっ娘が口元に右手を当てて「ムフフ」と笑う。
それを聞いたハルカさんが、ちょっと嫌な感じの表情だ。
しかしあまり反応したいとは思わなかった。
そんなオレの状態に気づいたのは、シズさんだった。
「おい、起きてるのか?」
「……あ、はい、昼寝してたみたいです」
軽く首を向けただけのオレの気のない言葉に、3人が部屋に入ってまだ起き上がる気力が起きないオレを囲んで覗き込んで来た。
「「「……」」」
「魂が抜けてるとかないよね」
「多分大丈夫。目に光がある、と思う」
「少し刺激してみようか?」
と言いながら、シズさんがベッドに上がって四つん這いで顔の方に近づいてきた。
いつもなら二人に引き止められたりするのだけど、つられて二人までダブルベッドより大きなベッドの上に這い上がってくる。
そしてすぐにも、目の前に3人の顔が出現した。
それぞれ気遣うような表情が浮かんでいる。
「実は今まで強がったりしてた?」
「街で何かヤな事でもあったの?」
「単に寝起きで呆けているだけじゃないのか? なんなら、このまま3人で抱きついてみるか?」
シズさんの冗談めかした言葉で、徐々に意識が戻ってきた。すぐ側に3人が来たので、石けんのいい匂いもしてくる。
よく見れば、3人とも夏の部屋着で、こっちの世界の上流階級の服の基本で、首もとどころか胸元などがかなり見えたりと、間近で見るとなかなかに魅力的だ。
「あー、大丈夫。寝ている間に、向こうで起きたみたいなんだ。けど、記憶が全然なくて」
そう言うと、3人が理解する表情になり「ああ」や「なるほど」などと納得した。
「なんだ、心配しかけて損した。半日ほどで寝ると、あるのよね」
「だが、1日丸ごとパターンは、最初は意外にショックだ。私にも経験がある。何かが認識できないのに、それすら意識できなかったりするしな」
「ボクは、その経験半分しかできないんだよね」
「私もあったけど大丈夫よ。普通にこっちで寝て一日分経過したら、あっちの1日分の記憶は思い出すというか記憶が戻ってるから。認識の方も大丈夫」
「そうか。安心した。けど、実感してみないと分からないもんだな」
色々な言葉をかけてもらったが、一つ気になる言葉があった。
「ところでレナ、経験できないって?」
「ほらボクは、実質片方だけの存在でしょ。だから見たりしたことを、向こうで話す機会がないんだよ」
「逆はできるんじゃないか?」
「うん。こっちで1日分見聞きした事を忘れてた事はあるよ」
「へーっ。やっぱり変則的なんだな」
「まあ、ボクは一種の病気だからねー」
そうして話していると、幾分気持ちも落ち着いたので起き上がろうとしたが、それができない事にようやく理解が追いついて来る。
今オレの上には、美少女3人が四つん這い状態で顔を覗き込んでいた。
「……そろそろ起き上がりたいから、ベッドから降りてほしいんだけど」
そうすると3人も、自分たちの状態を改めて理解出来たようだ。
それでベッドから降りてくれればいいのだけど、オレの頭の上で3人が顔を見合わせて悪い笑みを浮かべる。
「落ち込んだボクには、たまにはサービスよっ!」
「やっちまえーっ!」
「覚悟しろ!」
そのまま酒池肉林に突入したら男子の夢の実現だっただろうけど、主導権がオレにない以上そんな事はあり得なかった。
「アハハハハハハっ! やっ、止めろ。やめて、お願い!」
3人の美少女に手足をがっしり押さえつけられ、全力でくすぐられただけだった。
ちなみに、痛みを感じない『ダブル』への一番の拷問は、笑わせ続ける事らしい。
けど今の状況は、それなりに嬉し恥ずかしな接触があったので、間違いなくご褒美だった。
そして夕食を食べた後のお茶での事だった。
「それで、今晩はもう一度寝た場合ってどうなるんだ?」
「普通にこっちで寝て、こっちで起きるってのが普通のパターンだな。同じ一日がもう一回って事は絶対にない」
「眠気は?」
「今は眠くないけど、深夜になったら分からないな」
「案外眠れるもんらしいね。けど、覚えてないってことは、シズさんにガッツリ会ってるよね」
ボクっ娘の言葉は、もう一人の天沢さんを通してのものだ。口ぶりや態度、雰囲気にもそれが感じられる。
「相談を受ける日だったしな」
「相談?」
「ああ、家庭教師の相談」
「ショウがシズに?」
「もともとは、もう一人の天沢さんがシズさんに教えてもらってるんだけどね。あ、ゴメン、向こうの事ペラペラと」
ボクっ娘がペコリとハルカさんに頭を下げ、シズさんも軽くお詫びの目線を送る。
「いいいい、気にしないで。それでショウも教えてもらおうと?」
ハルカさんも手を軽くヒラヒラさせ受け入れるが、気負った感じはない。
「塾に行くって話を向こうのレナにしたら、そういう話になって」
「向こうでも返事したが、私はかまわないよ。ただ数学は1年の間だけにしてくれ。教えるのは、あまり得意じゃないんだ」
「へーっ、意外。シズはオールマイティーと思ってた」
「自分で解く分には問題ないが、教えるのが下手なんだ」
シズさんの事だから自身の勉強は出来るが、逆に勉強が出来すぎて教え方が分からないと言ったところだろう。
「りょーかいです。じゃあ当面は文系路線で攻めます」
「そういう自分で選択肢を狭めるのは良くないわよ」
「と言っても、数学だけ別に塾や家庭教師って、色々無駄が多いしなあ」
「それなら、ノヴァの大学まで行けば、物理、数学なら教えてもらえるわよ。高1程度なら私でも教えられるくらいだし」
この時は初耳だったが、こっちでも勉強出来たらそれは便利だ。そしてそう思った人達が、色々と記憶を頼りに教材を揃えていったというのを後で聞いた。
「ハルカさん数学得意なんだ」
「医療系の大学行くつもりだったの。それに数学や物理は魔法にも役立つから、こっちだけになっても勉強してたわ」
「そうなんだよな。私は記憶力全振りで、理系が得意な人は正直うらやましいよ」
「ちなみに、シズの高校の頃の偏差値は?」
そう問いかけるハルカさんの視線は、どこか少し探る感じだ。言葉にも少し緊張感が感じられる。
ごく弱い感じだけど、二人は互いをライバル視とは言わないまでも意識しているからだろう。
「90超えた時期もあったが、受かるのにそこまでいらないから、他の勉強をしていた。だから、模試の平均は80代だったな。ただこっちでのゴタゴタがあったから、受験はかなり厳しかった」
「やっぱり凄いわね。私、最後は高二の春だったけど70後半だったわ」
高二って模試をする時期だっけとか、思わずトオイメになる。
なんにせよ、オレは高校受験以来偏差値に縁はないけど、聞いたこともないような数字だ。
「どっちにしろ、オレにとっては雲の上どころか空の彼方だ」
「もう一人の天沢さんも到底及ばないよ」
「レナはそれほど悪くないだろ。問題は平均くらいというショウの方だ」
言い切られてしまった。その通りだけど。
ただそこで、ふと思うことがあった。
「それはともかく、この会話ってオレが既に一日過ごして来た事に影響しているとして、向こうのシズさんは覚えてないのかな?」
「ショウが一日過ごしたという話しは、仮に今聞いたとしても、向こうでの明日の私の記憶からは抜け落ちているよ。関連する記憶の多くも、せいぜい朧げくらいな筈だ」
「仮に聞かれても、なんでこんな話したんだろって、感じになるらしいね」
「多分、私とシズの間の会話は抜けてないから、問いつめたらショウの言葉とかが抜け落ちてるのが分かるわよ」
「あと、私が何かを話した影響で、ショウの記憶が丸々1日抜け落ちるかもしれないな」
それぞれ話を聞いたり経験があるらしく、適切と言える答えだ。
けどそこで、少し不思議に思える事が頭に浮かんだ。





