282「二つの世界での朝(2)」
就寝して再び意識が覚醒してくると、いい匂いがしているのが感じられた。
しかも胴体の辺りに、何かが覆いかぶさっているのも分かった。
いや、分かるどころか間違える筈がない。
その証拠に、耳の側ではもう聞きなれている寝息が聞こえているし、その寝息と合わせてごく僅かな空気の流れが、顔の方にゆっくりと流れてきている。
ゆっくり目を開き視線を少し下に向けると、予想した通りハルカさんの顔があった。オレの胸の辺りで自分の腕を枕にして、顔をこちらに向けて眠っている。
とはいえ、ベッドの中で添い寝をしているのではない。ベッドの横に椅子があるので、付き添ってくれていたらしい。
ただ今は、膝を床につけてオレと交差するように覆いかぶさってきている。
(期待し過ぎないでよかった)
ハルカさんの肩には夏用の毛布がかけられているので、彼女が眠った後に誰かがこの部屋に入って来たと考えられるが、まあこれは同じ部屋にいるクロだろう。
けど視界をその場で巡らせても、クロはいない。
最近は、他に人がいない時で戦闘以外の自らの仕事を見つけると、勝手に人化して仕事をこなして人知れず元に戻ったりするようになっているが、今もそのパターンだろう。
ハルカさんは目を覚ます様子もないので、しばらくそのまま寝顔を見続けた。
そしてそれで物足りなくなったので、自由になる方の手で彼女の髪をごく軽く撫でる。
そうすると、少し離れた場所に置いてあったクロがキューブから人化し、オレが目線を向けると一礼して、音をほとんど立てずに部屋を後にする。
本当、使用人としては完璧な奴だ。
そうして早朝のゆったりした時間を堪能していると、徐々に我慢できなくなってきた。こればかりは本能なので、仕方ないと思いたい。
しかしそうした邪な考えを抱いたのが悪かったのか、彼女が小さく吐息を漏らした。
寝てても色っぽい声だけど、これは起きる前兆だ。
案の定、少しして彼女の目がゆっくり開かれ、オレと視線が重なる。
「おはよう」
「いつから起きてた?」
似たような会話は何度目だろうか。
寝て起きたら異世界という現象だからこそのやり取りだと思えてくる。
「さあ。目が覚めた時、外はもう少し暗かったかな?」
「この毛布は?」
「クロじゃないかな? 今は部屋を出て行ってるけど」
「なんだ、ショウじゃないのね」
少し不満げな声だけど、本気の声でもない。
徹夜で看病というシチュエーションのご褒美が欲しいんだろう。
とは言え、オレが今あげられるものはない。
「無茶言うなよ。身動き出来ないのに」
「じゃあ、もっとさせてあげない」
そう言うと枕代わりにしていた腕を崩して、さらにオレの体にべったりと覆いかぶさってくる。柔らかいものが胸や二の腕辺りに当たって、なかなかに心地いい。
顔の片方を半ばオレの胸に押し付けながら、エロいことで喜んでいるオレの顔を見て、彼女も少し嬉しげに笑みを浮かべる。
「よかった。ちゃんと帰ってきてくれて」
「そこは目が覚めて、でいいだろ。どこにも行かないよ」
「嘘つき。生活の半分は現実で過ごしているくせに」
「そ、そればっかりは仕方ないだろ」
そう返すと、彼女のほっぺたが少し膨れる。
目と眉も少し釣りあがる。けど、犬の甘噛みみたいな感じでしかない。本当は甘えたい顔なのだ。
「そうだけど、ちょっとズルい。……それで、悠里ちゃんとは?」
「悠里には、向こうで一通り文句言われてきた。あと、シズさんはこっちのことはこっちで話すって事で、この体が無事って事以外は何も聞いてない」
「無事っていうけど、調べたら中がガタガタだったわ。よく普通に動けてたわね」
そう言いつつ、手でオレの体を撫でるように触る。
寝巻きの上からだけど、少しくすぐったくて気持ちい。
「全然気づかなかった。痛みを感じない欠点だな」
「それでも、動きがおかしいとか分かるものよ。体内の魔力が、傷ついた箇所を支えていたのかもしれないけど」
「そんな事あるのか?」
「Aランクの一部とSランクには、そういう事があるって噂で聞いたくらい」
「便利だけど、気をつけないとな。気がつかないまま致命傷の一線超えたりしてたら、洒落にもならないな」
「なら、極力無茶はしないで。あの時、本当にハラハラしてたのよ」
「うん。百人斬りチャレンジはさすがに無謀だった」
「百人斬りチャレンジってねえ」
本気で呆れて、べったりくっついていた体を起こしてしまう。
当人が甘えるのとオレへのご褒美の両方は、これで終わりらしい。
つられてオレも上体を起こすが、彼女はオレの目に視線を据えたままだ。
「ヨット。……まだ何かある? 病み上がりだし、お説教はもう勘弁してくれよ」
「違うよわ。今日が何の日か分からない?」
不意の質問に、頭の上で疑問符がくるくると回る。
玲奈とのデートは明後日で、タクミもまだ出現していない。こっちでのゴタゴタの後始末くらいしか頭には浮かばない。
そうして考えていると、彼女が小さく溜息をつく。
「自分の事くらい、ちゃんと覚えてなさい。今日はショウの試用期間中が終わる日よ」
「おおっ、ちょうど3ヶ月か!」
「そうよ。卒業おめでとう。これでショウも立派な『ダブル』ね」
ニコリと綺麗な笑みで祝ってくれる。本当に嬉しくなる笑顔で、こっちまで笑顔になる。
「日にちだけのカウントで卒業ってのは、今ひとつ有り難みないけど、ありがとう。全部、ハルカさんのおかげだ。本当にありがとう」
言いながら頭を深めに下げる。
もっとも、オレの感謝に対して少し呆れ気味の声が響いてくる。
「なに物語の終わりみたいに、お礼言いまくってるのよ。それと、試用期間中が終わる日には、周りの『ダブル』は歓迎会や贈り物をしたりするのよ。知ってた?」
「お祝いみたいなのがあるってのは、なんかで見たことある。じゃあ、パーティーとか期待したいところだけど……」
「ま、今日は昨日の後始末ね」
「だよな。まあ、オレにとっては毎日パーティーみたいなもんだし、別になくても構わないよ」
「じゃあ歓迎会はなしでいいのね」
そっけない声色だ。しかし、からかい半分なのは、もう間違ったりしない。
だから甘えることにした。それにこのタイミングで言わないとイケナイことがある。
「そっちは無くてもいいけど、もう一つの件では二人きりでしたいかも」
そう言うと、彼女が軽く首を傾げる。
「まだ何かの記念日があるの? もしかして誕生日だとか?」
「違うよ。ハルカさんと出逢ってからも、ちょうど三ヶ月、1シーズンだな」
そう出現日と出逢った日は同じだ。
彼女もその事を知っていたが、オレが言い出すまで待っていたようだ。
オレが口にした途端、嬉しそうな表情に変わった。
(うん。女子は何かと記念日が好きって言うしな)
「それも無し。だいたいそう言うのは、一周年じゃないと記念日ですらないじゃない。それに言ったでしょ、今日は忙しいって」
「えーっ、せめてそっちは延期で!」
「毎日パーティーなんでしょ。その代わり、今はこれで我慢なさい」
そう言って、オレの方に体を倒してキスをしてきた。
そのままぎゅっと抱きついてきたので、こちらも優しく抱きしめ返す。
暖かく柔らかい彼女の体そのものが、オレに幸せとこの世界が現実だということを実感させてくれる。
この後はいつものゴタゴタが待っているんだろうが、今くらいはこの幸せな一時に浸っても構わないだろう。
第三話 了





